巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「異なる」聖書解釈の仕方が存在する?ーーこれは実際どういう意味なんだろう?(by バルナバ・アスプレイ、ケンブリッジ大 解釈学)【悩める学生の皆さんへの応援記事】

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「ねぇ、『異なる』聖書解釈の仕方が存在するっていうのはさ、つまり、アイスクリーム屋さんに並んでるスウィーツを見ているって感じなのかな。どう思う?」

「スウィーツ?よう分からんわな。」

 

目次

 

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執筆者 Barnabas Aspray師。ケンブリッジ大(キリスト教神学、解釈学、形而上学)。ポール・リクールの解釈学研究。Barnabas Aspray — Faculty of Divinity

 

はじめに

 

さて今回は、聖書解釈の分野で現在論争を醸し出しているテーマについての考察です。

 

私はここで歴史的論題(例えば、「いつパウロがガラテヤ書を書いたのか」とか「バプテスマのヨハネはエッセネ派であったか」等)のことを言っているのではなく、適用の分野に関することを念頭においています。つまり、クリスチャンの生き方に関し聖書からどのような結論が導き出されるべきなのかという論題です。

 

「異なる」聖書解釈の仕方が存在すると言う時、往々にして私が頭に思い浮かべるのは、それぞれ異なる解釈のオールターナティブが隣り合わせに並んで座っているーーそんなイメージではないでしょうか。

 

それは譬えていうなら、アイスクリームの異なるフレーバーや、道路の分岐点から伸びているそれぞれの道のような感じです。そして私たちは「○○というトピックに関し、聖書はXと言っているのか、それともYと言っているのか?」という風に議論を捉えていると思います。

 

 

different options as flavours of ice-cream

 

しかし「異なる聖書解釈」というものに対するこのような見方では、今日キリスト教界でホットな論議を醸し出している諸問題の実情を捉え切れていないと思います。例えば、以下の一覧表をみてみてください。

 

ー女性たちは教会で静かにしているべきなのか。

ー創造の業は文字通りの6日だったのだろうか。

ー地獄といわれている場所は存在するのだろうか。

ーイエスは本当に神なのだろうか。

ー教会のリーダーシップは男性たちだけのものなのだろうか。

ー同性婚は罪深いものなのだろうか。

ー女性たちは教会で被り物(head coverings)をかぶるべきなのか。

ークリスチャンは環境〔問題〕に配慮すべきなのだろうか。

 

このリストの項目には一つの共通点があります。そうです、これらはーー少なくとも直接的な意味においてはーー競合する聖書の諸解釈というわけではありません。それで、もちろん、上記の項目に反論している人々は、自分たちの主張根拠を(当該トピックについて直接的には言及していない)聖書の他の箇所から得ていると言うでしょう。

 

しかし、彼らがそうできるためには、まずその前段階として、「当該トピックのことを実際に言及している聖書箇所を私たちは『文字通りに』受け取ってはいけないんですよ」ということを他の人に立証することができなければなりません。

 

ですから、まずもって議論されなければならないことは、聖書がそのトピックのことを直接的に言及しているのか否かに関するものです。

 

それゆえに、ここで本当に問われるべき事は、私たちが直面している倫理的諸事項において、私たちが「どれほど密接に、聖書の文字通りの意味に忠実であることができるのか」を巡ってのことです。ですから複数のオールタナティブに関してはむしろ次のように図解することができるかもしれません。

 

 

different options as greater and lesser distance

 

ファンダメンタリズムの場合ーー内向きの運動

 

原理主義者たちは内向きの運動inward movement)をします。つまり、聖句における文字通りの、明白なる意味に忠実であらんとし、‟それ” と ‟私たち自身” との間の距離をできる限り最小限のものにしようと努めます

 

しかし、文化的距離を全く取らずに、上に挙げた全ての項目を「文字通り‘literally’」に受け取っている人に私はこれまで一人も出会ったことがありません。そして私自身も全ての事項においてそのように「文字通り」には受け取っていません。

 

高等批評の場合ーー外向きの運動

 

それとは対照的に、高等批評に関する現代の釈義的ツールは、私たちを外向きに(outwards)突き動かしていきます。そしてそれに伴い、聖書の内容からの直接的適用がますます少なくなっていきます

 

聖書テキストがそれ自身の文脈の中で何を意味していたのかmeant)ということに関してはますます多くのことが分かってくるのですが、それに反比例する形で、自分たちの人生の中においてそれを適用することがますますできにくくなっていきます。

 

二人の釈義専門家がいるとします。この二人はある聖書箇所がそのオリジナルの文脈の中で何を意味していたのかmeant)という点では完全に同意できるかもしれません。しかし、それにも拘らず、それを今日どのように適用すべきなのかという点では完全に意見を違わせるかもしれないのです。ですから、釈義という専門的学問はその意味で、こういった種類の実際的判断を下すための備えは私たちに提供していないように思われます。

 

どこに指針を求めたらいいんだろう?

 

しかし聖書が直接的になにかを禁止/命令していない場合、私たちはどこに指針を求めたらよいのでしょうか。プロテスタンティズムの場合(もしくは少なくとも『聖書のみ』の原理を奉じている人の場合)、自分自身の論拠プロセス以外に依拠できる処はどこにもありません。*1

 

そして私たちを取り巻く文化のコモンセンスに基づいた諸前提からの重力的引き(pull)はかなり強力です。そのためほとんど常に私たちは、デフォルト設定により、私たちを取り巻く世俗世界が信じていることを結局自分たちも信じるよう方向づけられていきます

 

そしてこれは、世俗文化がたまたま同意しているところの、一つか二つの一般的な聖書的原則によって正当化されます。例:「自由」「平等」「誰も裁いてはいけない主義(non-judgmentalism)」等。

 

どちらも問題を抱えている!

 

ですから、高等批評(つまり純粋釈義)も原理主義と同様、解決すべき多くの問題を抱えています。また、一元的・皮相的な「保守 or リベラル」というオールタナティブでは、上記の諸問題の本質に肉迫する視点の深みに欠けています。なぜなら、両サイド共、支配的流行文化の持つ視点や諸前提に堅固に根差しつづけているからです。

 

3つの提言

 

以上のことを踏まえた上で、私は次のことを提言したいと思います。

 

私たちはグローバルな教会の広範囲なる領域で互いの諸解釈に耳を傾け合う必要があります。良質の神学というのは堅固なる教会論に根差しており、それは教会を、神のみ旨の探求において一致したものとみなし、個人主義を拒絶します。個人主義とは「誰の助けや矯正を受けずとも自分は自らの聖書理解において全ての回答を見い出すことができる」と自認・前提する態度のことを指します。

 

「何がテキストの内容を自分自身のそれと違わせているのか」ということに焦点を置く釈義と同様、私たちはつながりを再構築する他の学問(discipline)を必要とおり、それは「どういった諸原則があらゆる文化や時代を超え不変のままとどまっているのか」を私たちに示してくれます。そしてこれが、神学が為そうと努力していることであり、また、なぜ神学が良質の釈義の前後両方に来なければならないかの理由です。*2

 

キリスト教の伝統に、いくらかの真の権威的ウェイトが置かれるべきです。ーーつまり、ただ単に興味深い洞察を得ましょうという程度のカジュアル感からではなく、権威を持つものとして取り扱う必要があるという意味で私は申し上げています。単に自分自身の頭の中で、ある解釈が理に適っており、整合性があると判断したからといって、それで自動的に、自分の解釈とはシャープに対立している伝統的解釈を無視できるわけではありません

 

なぜなら、伝統というのは、数多くの異なる文化的諸前提を携えた聖書読者たちが何層にも世代を重ねた結果の、その集体であるからです。それゆえに、教会伝統に対し真剣なる考慮を払う人は、ーーただ単に一世代や単一文化の中で機能している個人やグループよりもーー、パースペクティブ上の強みがあります。

 

聖書釈義はーーそれ以上でもそれ以下でもないーーあるがままのものとして捉えられなければなりません。つまり、それはより広大なる神学的有機体の中の不可欠な一片であり、その有機体の中では、各部分が正常に機能すべく他の部分を必要としているのです。

 

ー終わりー

 

 

文献 

Grant, Robert M, and David Tracy. A Short History of the Interpretation of the Bible. London: SCM Press, 1984.

*1:ウォルフハート・パネンベルグが論文“The Crisis of the Scripture Principle,” in Basic Questions in Theology; Collected Essays. (Minneapolis: Fortress Press, 1963)の中で、この点を見事に突いています。

*2:ゲルハート・エベリングは「聖書神学は教義神学なしには生き残れない。なぜなら全ての聖書神学は聖書の権威という教義的基盤をもって始まるからである」と指摘しています。“The Meaning of ‘Biblical Theology,’” The Journal of Theological Studies VI, no. 2 (1955): 210–25を参照。