巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

道を求める魂とキリスト教弁証

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その道を歩み、魂に安らぎを得よ。エレミヤ6:16

 

カトリックの弁証家であるロバート・バロン神父の講義「無神論と‟神”という語の意味」を聴きました。これは、クリストファー・ヒッチェンズやリチャード・ドーキンズ等、世俗主義ファンダメンタリスト(New Atheists)として知られる論客たちの無神論主張に対するキリスト者側の弁証です。

 

Robert Barron, "Atheism and What We Mean By 'God'," in The Mystery of God: Who God Is and Why He Matters.

 

感動しました。そして続け様に二回視聴しました。何に感動したかといいますと、バロン神父が言っておられるように、私たちの2000年以上に渡るキリスト教伝統の中には、神存在を弁証する実に堅固なる宝が詰っているという事実を目の当たりにしたからです。

 

今あることは昔あったことーー。キリスト教会はその揺籃期より、神存在およびキリスト教世界観を否定する各種思想と勇敢に闘い、数多くの巨大な弁証家たちを生み出してきました。

 

バロン神父は、トマス・アクィナスの弁証法を援用しつつ、現代における ‟道徳主義的セラピー中心の理神論的(moralistic therapeutic deism)” 神像の誤りを明示し、それと同時に、フォイエルバッハ、カール・マルクス、サルトル、フロイト等の無神論的神観/世界観の歪みをも的確に指摘しています。

 

また、「神というのは被造物と競合関係にある存在である」という世俗主義者たちの主張に対する応答としてバロン神父は、451年のカルケドン公会議で確認された「キリストの神性と人性」からまず議論を出発させ、そこから受肉の教理を全面に打ち出していきます。

 

これを聞きながら、私は「ああ、キリスト教の神、聖書の中に啓示されている神はなんと神秘に満ち、偉大にして、愛に満ち溢れている方だろう!」と感動を抑えることができませんでした。また「この神はとほうもなく美しい方であり、受肉という歴史的出来事を通し、この被造世界は私たち信仰者の目にどれほど違ってみえることだろう!」と圧倒される思いがしました。

 

カトリックといわず、プロテスタントといわず、私たちは現在、こういった強靭なるキリスト教弁証家たちを数多く必要としていると思います。特に世俗的アカデミズムの世界に身を置きながら、日々、キリスト教世界観を模索しているクリスチャンの学生たちにとって、このような‟声”はどれほど彼らの信仰を鼓舞し強めることでしょうか!

 

また、「自分はどのように生きてゆけばいいのか?」「人が生きる目的は何だろう。」「キリスト教は本当に信じるに値する宗教なのだろうか?」「真理とは何か?」ーーそういった真摯なる問いを持った学生のみなさんも多くいらっしゃいます。

 

あるいは相対主義・多元主義の中で信仰の危機に直面し、不可知論の沼に陥った同胞たちもいるかもしれません。ベネディクト16世は、そういった友たちのことを同情心を込め、次のように表現しています。

 

「宗教とアンチ宗教という二つの潮流に加え、近年、不可知論という世界が拡大してきています。これら不可知論の世界にいる人々は信仰の贈物は未だ与えられていないけれども、真理を探究し、そして神を求めておられます。このような人々は単純に『神は存在しない』とは言っていません。彼らは神の不在に苦しみながら、しかしーー真理と善を求めつつーー内的に神に近づこうとしています。彼らは『真理を求める巡礼者、平和を求める巡礼者』です。」*1

 

「真理を求める巡礼者、平和を求める巡礼者」ーーまことにその通りだと思います。

 

私たち一人一人が今、どんな地点にいようとも、神の子イエス・キリストの『受肉』という神秘および事実が私たちを追いかけ、探し出し、そして私たちの魂をかき抱いてくれますように。

 

*1:Pope Benedict XVI, “Address of His Holiness Benedict XVI at the Meeting for Peace in Assisi,” October 27, 2011.