巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

書かれた「祈り」を祈る豊かさ、広さ、深さについて(by トーマス・ハワード)

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書かれ、祈られてきた「祈り」がある。(上は「共通祈祷書」の中の祈り)

 

目次

 

Thomas Howard, Evangelical Is Not Enough: Worship of God in Liturgy and Sacrament, chap.4. Random or Disciplined? ,1988(抄訳)

(*トーマス・ハワード氏は、『ジャングルの殉教者』で有名なエリザベス・エリオット女史のご兄弟でいらっしゃいます。)

 

ランスレット・アンドリューズの「朝の祈り」

 

院生時代、私はランスレット・アンドリューズという人の著作に出会いました。彼は英国のジェームズ1世治世下の司教であり、ジェームズ王の好む説教者でした。

 

アンドリューズは自分の霊性のために個人的祈禱の体系を考案し、それにPreces Privatae(私的祈り)と名を付けました。彼はこの祈り集をギリシャ語とラテン語でしたためたのですが、私はそれの英訳版に出会ったのです。*1

 

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この本の中には多くの形式の祈りが織り込まれているのですが、その中でも私は、「一週間の朝の祈り」というセクションに惹きつけられました。そして最終的に、ペーパーバックのその本から朝の祈りの部分を抜き出し、小さな黒革のバインダーノートに綴じ込みました。自分自身の祈り用にそれを使いたいと思ったからです。

 

修練はものごとを可能にし、構造は人を自由にする

 

その日から15年という年月が経過しました。そして私は今日に至るまで日毎にこの祈りバインダーを用いています。聖アンドレ教会での祈りにおいて当てはまり、夕の祈りの時課において当てはまったことが、ここにも当てはまっていました。つまり、修練はものごとを可能にし、構造は人を自由にするということです

 

長年、私は「よし!」と奮起しては、誠実なる日々の祈りに励もうと試行錯誤してきました。しかし次に挙げる二点により、私の努力は常に浅瀬に乗り上げてしまっていました。

 

第一に、遅かれ早かれ、日々の祈りをなおざりにしている自分がいました。というのも祈るモードや心境になれなかったからです。また二番目に、自分の言葉だけで祈ろうとすると、やがて言う内容が尽きてしまい、後はもう何を言っていいものやら分からなくなるという問題に直面していました。

 

しかしそうだからと言って、アンドリューズの朝の祈りを採用し始めるや、私の日毎の祈りが激変したわけではありません。しかし少なくとも、この祈りを用いることで、上記の二つの浅瀬に乗り上げることからはどうにか守られるようになったと思います。

 

聖アンデレ教会の礼拝や大学チャペルでの夕の祈りと同様、この祈りもまた、人が神の元に向かうのは、その人の感情と何ら関係がないということを私に教示してくれました。人はただシンプルに祈りの行為を為せばいいのです。これはユダヤの民が捧げ物や犠牲を神殿に持っていく行為に似ているかもしれません。私たちがそれを行なうのは、それが神の民の為すことだからです。

 

秩序と韻律(rhythm)

 

さらに、こういった祈りの行為は、単調でつまらない義務などでは全くないばかりか、それはむしろ私たちの生活に秩序を与え、補強し、それに韻律(rhythm)を与えるということを発見しました

 

正直な人なら誰でも、祈りというのが時として淡褐色のさえない‟義務”のように感じられる経験をしていると思います。そして自分のその単調さを乗り越えるための頼みの綱が自分の意向(気持ち)だけだったとしたら、当然のことながら事は散発的になります。

 

しかしもしも彼が祈りを平易な習慣ととらえることを学んでいくなら、事はそれほどひどい葛藤ではないということに気づくでしょう。もちろん、自分の魂の状態にはしばし葛藤を覚えるかもしれません。しかしそうだからといって、彼の祈りの習慣がそれで止まってしまうということにはなりません。なぜなら、それらはヨセフとマリヤが神殿に携えていった鳩の如く、客観的なものだからです。

 

定式の祈りを祈る

 

もちろん、堅実な祈りの習慣を身に着けるべく、私たちは是が非でも定式の祈りを持つ必要はありません。例えば、私の父は、書かれた定式の祈りではなく、即興の祈り(extemporaneously)を毎朝ーーそして50年以上!ーーしっかりと捧げていました。

 

しかし私自身に関していえば、この事に関し、自分自身の資源に依存することはなかなかできませんでした。友人たちの中には、「いや、聖霊はね、常に私たちの祈りを新鮮に、そして熱く保ってくださる!」と熱心に説いてくる人もいました。私も神はそのようにすることがおできになる方だと信じています。しかし実際問題として私は、聖霊によって絶え間なく新鮮に熱く祈りの生活を保てているクリスチャンをほとんど見い出すことができませんでした。

 

私たちが神について知っていることから考えますと、神は秩序の創造者であり、支えや介助や鍛錬というのは主の用いる一般のメソッドであるということです。それは自然のプロセスに諸形式(forms)があり、その下にあって、神が絶えず、地中の種を発芽させ新しい命をもたらしているのと同様です。

 

福音主義の強点と弱点

 

福音主義は私に祈りの大切さを教えてくれ、また実際、自分に祈ることを教えてくれました。そして毎日祈ることの大切さを教示してくれました。しかしながら私が受け取ってきた印象というのは、「人は多かれ少なかれ、結局、一人で自活しなければならない」ということでした。

 

聖霊が私を鼓舞し、それゆえ私は祈ることができるーー。最終的にこの線上での教えが行き着くのは、いわゆる教会の中での熱心("enthusiasm")といわれるものではないかと思います。そしてここに見られる一般的な傾向は、天からの直接的、個人的諸経験を求め、外的な構造や介助物には比較的重きを置かないというものではないかと思います。

 

キリスト教の歴史をみますと、こういった熱心さを表す多くの力強い実例を見い出すことができます。ーーモンタニスト、クウェーカー、そしてウェスレー派の人々でさえも熱心派に入るのではないかと思います。しかしここでいう「熱心」というのは必ずしも騒然としているという意ではなく、彼らの教えが神からの直接的伝達という観念を強調し、時としてより単調で間接的な諸手段を排除する傾向のことを指しています。

 

しかし、福音主義の中で私が出会ったほとんど全ての同胞クリスチャンたちの証言が正しいのだとしますと、全く外的介助なしに長期に渡り日々の祈りを実践していくことに非常な困難を覚えているのは私だけではないということが分かります。

 

私はその後、今日に至るまでランスレット・アンドリューズの祈りを用いていますが、一行足りとも未だ色褪せていません。この修練は私に、祈りの生活というのはーーそれが、自分の熱意だけに頼っては続けることのできない私のような者にとって散発的なもの以上であるとするならばーー、一時的で短命な性向から独立し、統制されたものでなければならないということでした。ーーちょうど、肉体の生活の中で食べることや寝ることがそうであるように。

 

私は一人ではない

 

また私は、祈りというのがただ単に自分自身の努力や試みに関わるものではないということをも学んでいきました。私は、ーーあらゆる場所にいる全ての人のために恵みの御座の前で執り成している無数の祈り手たちと共に立っているのだということに気づきました。祈りは、時の初めから絶え間なく、義とされた人々の元から薫り高い香のように捧げられ続けています。

 

聖書の中のアブラハムやダニエルやヨセフ、マリヤのように主に捧げ物を携えていった人々の姿や、寝ずの番(vigil)をしたシメオン、アンナなどは、私たちがとりわけ共にいることを望む一群の人々です。

 

私は自分に祈ることを教えてくれた福音主義から大いに恩恵を受けています。どんな人でも祈ることができ、また、自分の心にあることを素直にありのままの言葉で祈ることができるという事を教えてくれたのも福音主義でした。祈りというのはミサ典書や決まった諸形式の中に閉じ込められてはいませんでした。また私は祈りの即時性というものを学び、瞬間瞬間、神が私と共にいてくださるという強い臨在性についても学びました。

 

しかしながら、思うのです。その熱心さに対する強調のうちに、福音主義はやや私たち自身を過大評価しすぎるきらいがあるのではないかと。ジョージ・ミュラーや、ハドソン・テーラー、祈りのハイドなどの人物は、見習うべき祈りの模範として取り上げられています。

 

しかしこれは、譬えていうなら、小さな男の子の前にシルヴェスター・スタローンを見本として提示し、「彼のようになりなさい」と言っているようなものではないでしょうか。この男の子が次にしなければならないことは何でしょう。ーー長い年月に渡る修練の日々が彼を待ち受けています。そしてこの部分の事柄が福音主義の敬虔性の中ではあまりクリアーではないように思います。

 

受肉と祈りの生活

 

福音主義的展望の持つ内面的そして‟霊的”性質は、それがーー全てが言い尽くされ為された後に、「たといそうできたとしても、あなたの心が堕落しているのならそれらは何ら意味を持ちません」と主張する限りにおいてはーー信頼できる言明だと思います。

 

しかしながらもしもこういった言明が「内面的なものは外面的なものを排除する」とか「完全に霊的な状態であるとはつまり、その人がもはや日課や修練や支えを必要としなくなる」というような印象を人々に与えるようになるのでしたら、福音主義は少なくとも、「受肉」に関するなにかを見落としているのではないかと思います。

 

なぜなら、まさにこの受肉において、非物質的なものが肉体的なものになったからです。神はただ単に見せかけとして死すべき肉体という状態にご自身の身をさらされたわけではありませんでした。そうではなく、主はまさにそれらの諸状態を引き受け、それらを蘇らせられ、聖められ、栄化させたのです。

 

私たち死すべき人間は御使いではありません。私たちはリアリティーを直接的に不動に凝視することはできません。そして私の目に、福音主義は往々にして、ーー御使いたちにだけしか実際には可能ではないような種類の‟絶え間ない熱烈さ”という霊性の像をーー人々に要求してくる傾向があるように思いました。

 

もしも私たちにそのような霊的高揚の瞬間が与えられるなら、それは本当にすばらしいことです。しかしそれはいつも起こるような型(pattern)ではありません。それは日常的なものではありません。そしてそれは祈りの学校ではありません。

 

古代教会との接触を通し、私は「自分たちクリスチャンには介助物が必要である」という教会の賢明にして地的なる認識/配慮に感謝するようになりました。そして、時課(Office)やその他数々の定式の祈りを私たちのために豊かに備えてくれている古代教会の存在に感謝するようになりました。

 

ー終わりー

 

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同著者による別のテーマに関する記事ーー典礼の交唱について

*1:Lancelot Andrewes, The Private Devotions of Lancelot Andrewes (Preces Privatae), New York: Meridian Books, Inc., 1961.