巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

『共通祈禱(Common Prayer)』それとも筋書き通りの政治?(by カール・R・トゥルーマン、ウェストミンスター神学校歴史神学)【米国聖公会とジェンダー包括語問題】

「現時点ですでに人々は、『人間』に関するジェンダー用語を勝手に書き変える大胆不敵さを持っているのですから、今後は『神』に関するジェンダー用語さえも書き変えていくーーそういう大胆不敵さをも近い将来、発揮していくことになるのではないでしょうか。」メアリー・カスィアン、南部バプテスト神学校(2011年)

(写真)Episcopal Diocese Votes to Avoid Using 'Gendered Pronouns' for God in Book of Common Prayer (Christian News Network, 2018年2月2日付)出典

 

目次

 

『共通祈禱書(Common Prayer)』それとも筋書き通りの政治?(by カール・R・トゥルーマン、ウェストミンスター神学校)

 

www.firstthings.com

 

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Carl R. Trueman (1967-) ウェストミンスター神学校で歴史神学および教会史を教える。2018年秋からはグローブ・シティ大学で教鞭をとる予定。翻訳記事:人生のどん底にいるクリスチャンは何を歌えるのか?(by カール・トゥルーマン)

 

〈政治以前のもの〉に対する容赦なき粛清

 

西洋社会が、〈政治以前のもの(pre-political)〉を容赦なく粛清し続けている昨今、‟死者数”は上昇の一途をたどるのみです。

 

昨日の無害な活動ーー例えば、男の子だけのボーイ・スカウトなどーーが、明日には、「他者に対するシスジェンダー異性愛規範による家父長的抑圧行為」だと糾弾されます。非常に恐ろしい突然変異型の細菌のように、政治的なものが少しずつしかし確実に、すべてを吸収し、ーーそしてすべてを破壊しつつあります。

 

フォリオ・ソサエティ出版の『共通祈祷書』

 

最近、私はフォリオ・ソサエティ出版社のedition of the Book of Common Prayer(『共通祈祷書』)をプレゼントとしていただき、冒頭に書いた旨を今一度噛みしめました。その他全てのフォリオ・ソサエティ出版社の著作集と同様、この共通祈祷書もまた美しい代物です。

 

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Folio Societyの共通祈祷書(出典

 

「祈祷書」は、少なくとも、長老派としての私の伝統にとっては歴史的に、礼拝統一法(1662)による制定を通した社会的統制の手段であり(それゆえに実際的適用という面では〈政治的なもの以前〉からは程遠いですが、、)、その内容自体は究極的に言って、宗教改革の英国政治ではなくむしろ、歴史的キリスト教および地上的存在の基本的諸要素を反映したキリスト教の一形式を表しているといえましょう。

 

そういった諸要素として挙げられるのは例えば、公同的諸信条の神、誕生や死によって刻まれる人間生活ーー喜び、悲しみ、平凡な仕事、歓喜。。愛、結婚、病気、死別といった日常にして普遍的なる人間の諸経験で溢れた世界に生きるという要素です。

 

『共通祈祷書』の中に織り込まれている式文や祈りは、末永い永続性をもつあらゆるものに言及しており、それらをイエス・キリストの中に啓示された三位一体の神に結び合わせています。

 

それ故に、『祈祷書』は永い間、かたちを変えず、何世代にも渡り、改訂はマイナーな種類のものにとどまっていたのではないかと思います。根本的信条におけるコンセンサスは堅固であり、それゆえに、変化や改訂も表面的なものでした。

 

典礼の変更、、また変更

 

それとは対照的に、前世紀、全世界のさまざまな聖公会および監督教会の諸グループが典礼に変更に次ぐ変更を加えてきた事実を私たちは目の当たりにしています。そして私の知る限り、こういった変更のどれ一つとして、散文スタイルや神学的内容における著しい向上を具体化しているわけではありません。

 

ここ数十年の間に加えられた諸改訂の足跡を辿ることで間違いなく一つの実りある(あるいは気が滅入る)博士論文が出来上がってしまうでしょう。というのも、これらの諸改訂は、最新の流行思想をひたすら追いかける、落ち着きのない、近視眼的執着の時代を映し出す鏡となっているからです。

 

こういった事が起こっている理由の一つは、キリスト教の典礼ーーそして神ご自身ーーが、〈政治的以前のもの〉に対する廃絶という動きの犠牲者となってきたからです

 

誕生、性、死といった人間存在の普遍でさえも、中絶、LGBTQの諸権利、安楽死を通し、今日の政治問題となっています。ポストコロニアル的思考の持ち主にとっては、汎政治化した世界(pan-politicized world)での試合参加を拒み、伝統的典礼を堅持するという行為は、一種の政治的立場の表明という風にみなされます。

 

政治がすべてになる時

 

それゆえに、伝統的典礼は、「支配的な政治ロビー諸団体の最新版『敬虔さ』に自らを従わせなければならない」という苛酷な重圧の下に置かれているのです。

 

政治がすべてになる時、神は畏敬に満ちた超越性を失い、それに代わり、人間が舞台の中央にのし上がってきます。そして専門的犠牲者たちの今の患難が、神の重い永遠の栄光に取って代わっています。

 

こうして歴史的/聖書的キリスト教は今日性を持たないものとされるようになりました。ーーいや、事態はより最悪かもしれません。それは抑圧の道具だとさえみなされるようになってきているのです。

 

米国聖公会が現在、精力的に推進していること

 

ですから米国聖公会が現在精力的に推進していることを見ても私たちはもはや驚きません。ーー彼らは一般信徒たちの信仰をめちゃくちゃにしているだけでなく、さらに、神に関するジェンダー言語を典礼から排除するという運動を推し進めています。

 

彼らは、

①いかに神の言語(God-language)が働いているのかに関する深遠なる無知をさらけ出すことにより、

②歴史的キリスト教にかかわるあらゆるものからの教団の離縁を強化することにより、そして

③自らを再び、リベラル政治機構のかなり味気なく今日性を持たない道具として売り込むことにより(彼らはリベラル政治機構からの認証を切望していますので)

驚くべきハットトリックをしています。

 

これに加え、ーー“Godself”というような言語学的醜悪によって代表されるーー恵み深き散文および神学的正気に対する数々の犯罪も今後、さらに増えていくことでしょう。

 

フォリオ・ソサエティ出版の『共通祈祷書』は、上質の紙で美しく活字化された上でしっかり装丁されています。この美しさは『祈祷書』それ自体の内容を映し出しています。そこに内在する懸念は、それ自身の内で考えられる人生の有為転変というよりもむしろ、主権者にして栄光ある神という文脈の中に設けられている有為転変です。

 

その宗教は、被害者意識という我々の時代病理に対する不毛なるセラピーではなく、現代政治に関する怠惰でありきたりなクリーシュでもありません。そうです、これは歴史的キリスト教という宗教であり、『祈祷書』の形式もその内容もそれを見事に顕しています。だからこそ、それは今日性を求めて死に物狂いのあがきをする必要性がないのです。

 

そしてそれだからこそ、百年後、私のひ孫たちによっても変わらず読み継がれるであろう、この版を祈祷書として用いることは良いことなのです。ひ孫たちが人生の中でどんなことに直面しようとも、彼らもまた自分たちと同じように、誕生、愛、喜び、病、死を経験していくことでしょう。そして彼らが礼拝する神もまた、現在、私たちが礼拝している神と同じ神です。

 

それとは対照的に、米国聖公会は、その改訂版『祈祷書』を糊でとじた安価なペーパーバックとして支障なく出版できるのでしょう。(せめてリング綴じにしたら、まだましかもしれません。。)

 

でもやっぱりいつでも変更のきく「糊とじ」じゃないとダメかもしれません。というのも、「聖徒にひとたび伝えられた信仰」に新たなる内容を付加したり、差し引いたりするよう要求してくる政治ロビーが来週、どんな事を求めてくるか分かったものじゃありませんから。

 

ー終わりー

 

執筆者:Carl R. Trueman, a professor in the Alva J. Calderwood School of Arts and Letters at Grove City College, Pennsylvania.

 

関連記事


 

【補足資料】ジェンダー包括訳聖書が私たち女性にとって有害である10の理由(メアリー・カスィアン、南部バプテスト神学校女性学)

 

Mary A Kassian, 10 reasons why the new NIV is bad for women, 出典

(自ブログ「地の果てまで福音を」より再掲載)

 

 

はじめに

 

今年の初めに(2011年)、NIVの包括訳バージョンが刊行されました。この新版は、聖書の中の男性ジェンダー用語に対して何千という変更を加えています。

 

包括訳聖書を持っているのは、今時「最先端をいく」「クール」なクリスチャンとしてのトレンド・マークといった感があります。でも誤解しないでください。私は最先端が悪いといっているわけじゃないんです。私だって新しいもの好きです。

 

でも、こと包括訳聖書に関して言うなら、この聖書が教理の点で正確さに欠いているという点で私は憂いています。言葉を変にいじくり回すなら、意味も変にいじくり回されてしまいます。

 

真摯な聖書学者の方々は、なぜNIV(新国際訳2011)や、NRSV(新改訂標準訳)や、CEB(共通英語聖書)などに重大な欠陥があるかということを説明しておられます。こういった方々の論稿を読んでみたい方は、Gender Neutral Bible Articlesをチェックしてください。

 

また、教理的な面での不正確さ、そして露骨な政治的アジェンダというこの二点以外にも、私がこういった包括訳聖書を受け入れることができない理由があります。

 

もちろん、出版社側は善意でこれを刊行され、純粋に、「これが女性たちの助けになれば」と思ってくださっているに違いありません。でも私の目から見れば、包括訳聖書というのは、(女性たちの助けになるどころか)実際はその逆に、女性にとって「害」になるものです。

 

ええ、私はこの点を強調したいです。本当にこれは私たち女性にとって「害」になるものなのです!以下、私は自分がどうしてそのように考えているのか10の理由を書き綴っていきます。

 

1.包括訳聖書は、ジェンダーという深遠なシンボリズムをぼかし、不明瞭にしています。

 

ジェンダーには深遠で、宇宙的な意味があります。神様は男性像(manhood)、女性像(womanhood)、結婚、性などを創造することにより、キリストと教会との間にある愛をご表示されたのです。

 

ですから、私たちが聖書に書かれてあるジェンダー用語を勝手にいじることで、ジェンダーのシンボリズムが不明瞭にされてしまいます。その結果、神について、そして福音についての真理理解が、より困難なものになっていきます。

 

2.包括訳は、ジェンダー自体を――それが本来指し示すもの以上に――賞揚しています。

 

聖書のジェンダー用語を変えるという行為は、すなわち、「そういった用語が私たち(人間)に関わるものである」という主張を内に秘めています。

 

しかし、そうではありません。聖書というのは、究極的には、男性や女性のことを言っているのではありません。それは、人の子であり神の子であるイエスについて言及している書なのです。

 

そうです、聖書は、男性たちを賞揚しようという目的で男性ジェンダー用語を多く用いている訳ではなく、それは「かの御方」(THE Man)ーー主の花嫁を贖うために究極の代価を払ってくださった唯一無二の御方を賞揚し、高めるために用いているのです。

 

3.包括訳により、女性像(womanhood)というたぐいなき美しさが損なわれています。

 

聖書のジェンダー用語をぼかすことで、ジェンダーの区別が曖昧にされます。その結果、女性像というかけがえのない役割や美しさが損なわれ、その価値がおとしめられています。

 

4.包括訳はかえって女性を排除する結果になってしまっています。

 

ジェンダー包括訳聖書は、女性を「集合的全体の一部」として内包するのではなく、かえって女性たちを〈他者〉として締め出してしまっています。

 

神は集合的に男性と女性を「アダム」(ヘブライ語 ‘adam、創5:2参)と名付けられました。それは何を意味するのでしょう。そうです、その事により、「男性も女性も共に同じ状態にある。そして、それに対し、主は共通の答えを備えておられる」ということを示唆しているのです。

 

男性も女性も共に「アダム」(‘adam)であるゆえに、両者共に、最初の人アダムによって等しく代表(represented)されています。そして罪により、両者共に堕落し、救い主を必要としています。

 

福音のすばらしい知らせは何かを言いますと、その両者共、第二の人、つまり最後のアダムであるイエス・キリストによって等しく代表されているのです。神が男性と女性をアダム(‘adam)と名付けられた時、神にはすでに「最後のアダム」のことが念頭にあったのです。

 

ですから、現代人の機嫌を損ねまいと、この「アダム」という箇所を私たち流の考えで「包括的」と思える何か他の用語で置き換える時、神学的な意味は損なわれ、結局、私たちは女性を排除してしまうことになるのです。

 

もし女性がここではっきりと「アダム」とみなされていないのなら、一体どうして私たちは、「最初の人アダム」によって代表され得ましょう?いいえ、それだけではありません。一体どうして第二の人であり、最後のアダムであるイエス・キリストによって、私たち女性は代表され得るというのでしょう?

 

ジェンダー包括訳聖書は、「女性にやさしい訳」、つまり女性をより包括している聖書であるとされています。しかし逆説的なことに、神学的に全く逆のことがなされています。そうです。この訳は集合的全体から、女性を排除してしまっているのです

 

5.包括訳は女性を貶めています。

 

ジェンダー包括訳聖書は、結局のところ、「女性というのは本来、頭が鈍く、聖書の中で「男」とか「兄弟たち」と書かれている箇所が包括的用語であるということさえ機敏に悟ることができないほど私たち女性は愚鈍な存在である」ということを暗示してしまっています。

 

だから男性の聖書翻訳者の先生方は、そんな愚かな私たち女性のために言葉を置き換えたり、いろいろ努力しなければならない、、

 

率直に申し上げます。私はこのような聖書訳から、女性の知性に対する軽蔑心を感じています。

 

6.包括訳は女性を脆弱な存在と見下しています。(It patronizes women)

 

かわいそうな娘たちーー。私たち女性の感情が傷つかないようにと、翻訳者の方々は聖書の言葉を変える必要性を感じておられるのです。女性っていうのは、ちょっとしたことですぐ気分を害したり腹を立てたりするから、、、と。

 

でも一部の女性たちが、聖書の用語のことで腹を立てたりするから聖書の言葉を変えるというのは、結局、女性を見下していること(patronizing)にならないでしょうか。

 

7.包括訳は、女性に対する神の態度に疑問を差し挟む結果を生み出しています。

 

ジェンダー用語に変更を加えるというのは、「神様は、女の子にも男の子にも同じだけの〈放送時間〉を与えなくちゃいけないのよ!」という前提に基づいた行為です。

 

両者の間にある相違を最小限にしようという試みは、結局、神様は私たち女性の気持ちを十分に配慮してくれていなかった、、と言っているようなものです。そこから導き出される自然な結論として、神様は明らかに女の子よりも男の子の方を気に入っておられる、ということになります。そういった結論は間違っています。そしてそのような前提自体、間違っています。

 

8.包括訳は神様の知恵に疑問を差し挟む結果を生み出しています。

 

〈かわいそうな神。神は私たちの助けを必要としているのです、、神はあんまり賢明な方じゃないので、ちゃんとした用語を選ぶことができなかったんです。だって神様は、現代に生きる私たち人間のようには啓蒙されてもいないし、賢くないんですもの!さあ、だから私たちはこういう事態をおさめるべく、問題解決に乗り出し、「神のかたち」をアップデートし、現代女性のご気分を損ねないような聖書の訳づくりをし直さなくちゃならないんです。〉

 

9.包括訳は、御言葉を「書き換える」という行為をさらに奨励してしまっています。

 

「クリスチャンというのは、神に対する畏れもなく、自らの聖典をいじくり、勝手に書き変えることのできる人たちなんですね!なんと大胆不敵な人たちでしょう!」と、あるイスラム教徒の方がびっくり仰天しておられました。

 

そうです。現時点ですでに私たちは、「人間」に対するジェンダー用語を勝手に書き変える大胆不敵さを持っているのですから、今後は「神」に対するジェンダー用語さえも書き変えていくーーそういう大胆不敵さをも近い将来、発揮していくことになるのではないでしょうか。

 

今後、さらに多くの聖書翻訳者が、「神の名をアップデートしなくちゃならない。そうすれば神はより〈ジェンダー包括的〉な方になるだろうから」と感じるようになるに違いありません。

 

「父母(ちちはは)神」「イエス――女性と男性の子」「天空にある、存在の偉大な源」「神・女性神(Goddess)」などという用語は、聖書の中にある男性ジェンダー用語よりもはるかにジェンダー包括的な神性の概念を伝えることができる、とこういった人々は考えているのです。

 

みなさん、もはや無邪気ではいられません。私は長年、フェミニスト神学について研究してきました。ですから分かるのです。自己を名づける(naming self)という行為は、世界を名づけることにつながり、それはやがて神を名づけることにつながっていくのだということを。これは本当に〈大胆不敵〉な行為です!

 

10.包括訳は女性を真理から引き離します。

 

私は同胞女性のみなさんを愛しています。深く。私はみなさんがキリスト・イエスの中で癒され、すこやかにされていくことを願ってやまない者です。ですから、もし私が聖書のことでペコペコお詫びし、御言葉の有する装飾なき美しさと力を受け入れないなら、、、

 

そして、ある人々にとっては「愚かな物」であり「つまずきの石」とみなされているけれども、実際には義と聖化そして贖いをもたらす神の力であり知恵である御言葉を宣べ伝えることをしりごみするなら、私は結局、みなさんにひどい仕打ちをすることになってしまいます。

 

神様および主の言葉を「もっと現代人に耳障りのいいものにしよう」と試みる時、私はみなさんを最終的に失望させることになります。そうです。そういった行為により、私たちは十字架の言とその力を空虚なものにしてしまうからです(1コリント1:17-30)。

 

ジェンダーおよびジェンダー用語は重要です。これは女性のアイデンティティーの本質に触れるものであり、神のご性質および福音の本質に触れるものです。こういったものに関する聖書の教えを私たちが「改良」することができるなどと思うのは非常に間違っています。

 

大きな鳥瞰図でみると、創造のはじめから、ジェンダーに関する神のご計画は私たち人間についてというよりも、むしろ主ご自身に深く関わりのあるものであったことが分かります。このようにして主がご自身の栄光を顕そうとお選びになった言葉やイメージ(象徴)、やり方などを私たちは完全には理解できないかもしれません。

 

でも私たちは次のことに信頼を置くことができます。そうです、それら神様がお選びになったものは正しくふさわしいというだけでなく、それはまた良いものなのです。とても良いものなのです!そしてそれは私たち女性にとっても、とても良いものなのです!

 

善戦するに値する戦い

 

言葉は時と共に変わるものであり、それ故、翻訳というものは容易な作業ではありません。でも私は、クリスチャンが、文化的「パレード・ワゴン」に我先に飛び乗って、包括語でもって神様の聖なる書物をアップデートしようとしている様子に心を痛めています。

 

そういう事をしておられる方々は、自分たちが何をしているのか、、そこに実際、何がかかっているのか、その深刻さを自覚していないようにお見受けします。

 

私の教え子の中には外国人留学生もいます。その中には、神様の概念についての理解で相当苦労している生徒たちもいます。なぜなら、彼らの母国語の聖書には、原語の中に存在しているジェンダーの概念がしっかり反映されていない、あるいは訳されていないからなのです。

 

私たちの母語の中に付与されているジェンダーの性質、その言語学的概念を失うことで、私たちはとても大切で本質的な何かを失っていくことになります。私たちの母国語の中に存在するジェンダーの区別を保持していくことは、善戦するに値する戦いです。なぜなら、この問題をめぐっては、まさしく非常に大きなものがかかっているからです。

 

ですから女性のみなさん、どうか、ジェンダー包括聖書というワゴン車に飛び乗らないでください。勇敢であってください。政治的アジェンダに左右されないください。

 

現在も正確にジェンダー語を訳出している聖書(たとえば、ESV訳、ホルマン・クリスチャン標準訳、新アメリカ標準訳など)にこだわり続けてください。なぜなら、結局のところ、包括語および包括訳聖書というのは、私たち女性を害するものなのですから。

 

ー終わりー

 

【補足資料2】「グローバル〈性革命〉ー自由という名における自由の破壊」(ガブリエラ・クビー、社会学)

 

「グローバル〈性革命〉ー自由という名における自由の破壊」ガブリエラ・クビー女史へのインタビュー記事及びジョグジャカルタ原則の詳細については(日本語)はココ