巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「個」から「公同性」へのちいさな一歩を踏み出したい。

Frescos cover the ceiling of the St John the Baptist Serbian Orthodox Church.

使徒たちがいて、聖徒たちがいて、そこに時空を超えた公同の交わりがある。(出典

 

インターネットの普及により、私たちは世界中のさまざまな聖書教師たちのHPを訪問し、そこから御言葉の教えや霊的糧を得ることができるようになりました。

 

「うん、この先生の教えはすばらしい!」と判断したなら、私たちはその日から早速教師Aのフォロワーになることが可能です。仮にA師が御霊に満ち、聖書知識に富んだ有能な教師なら、彼という個人の周りに、大勢のフォロワーが集まり、こうして一つの個人的チャーチ空間が生じます。

 

思えば、私たちのプロテスタンティズムはその誕生当初から「個人」を単位にしたフォロー/フォロワー空間が優勢だったのではないでしょうか。

 

ルーテル派、ウェスレー派、メンノ派、メランヒトン派、ツヴィングリ派、ベニー・ヒン・ミニストリーズ、デリック・プリンス・ミニストリーズ、ジョイス・マイヤー・ミニストリーズ等、、プロテスタンティズムでは教会やミニストリー名の筆頭に「個人名」が付くことが多いようです。(ただ、例えば、ルターにしてもウェスレーにしても、けっして自分の個人名を基にした新派をつくることは生前、望んでいなかったと思います。両派共に後になってそのように呼ばれるようになりました。)

 

しかしながら、先日二つの記事*1の中でお分かち合いしましたように、私は、この「個人」を単位にしたプロテスタントのフォロー/フォロワー空間に限界と行き詰り、そして出口のない閉塞感を感じています。どんなに公同性を求めても、「個」から出発したブーメランは結局また「個」である自分の元に戻ってきます。

 

教師AやBの聖書解釈がたといどんなに優れているように思えても、A氏やB氏という一個人の下す個人解釈(あるいは教団解釈)が、全体としての公同的普遍教会とどのようにつながっているのか、そしてA氏やB氏のその個人解釈に誰が認証を与えているのかという権威の問題が定かでないために、不安が心の中から去りません。

 

『聖書のみ』を基盤に、ただ単に「整合性がある*」というだけでは、聖書解釈における使徒的正統性は得られないのだということを、他宗派の方々の指摘と警告を通し私は思い知りました*。実に、歴史から、そして教会共同体から切り離されたところで独自になされる解釈は公同性を浸食し、やがて不健全な霊的ゲットー化を招くということを思い知ったのです。*

 

ただし、ウェストミンスター神学校のマイケル・ホートン師が指摘しておられるように、「個人主義」という問題の根っこ自体は宗教改革以前からすでに存在しており、その意味で、「礼典的タペストリーの織物をビリビリと引き裂きつつ、宗教改革者たちは形而上学的『一義性』『主意主義』そして『個人主義』のロジックをその当然なる結論へと押し進めていった」という新教外部からの批判はそのまま鵜呑みに出来ない気がします。*2

 

ですから、聖書の教えに関する「個人」を単位とするフォロー/フォロワー空間がプロテスタントだけに特有かというと必ずしもそうではないのかもしれません。ただ一つ言えることは、現代プロテスタンティズムにおける「個」の押し進め方はやはり他を凌駕しており、天文学的な数の教派教団及び個人ミニストリーの存在がそのことを証左していると思います。

 

そのため、こういった解釈学的個人主義&多元主義を尚も突き進み、且つ、各自がそれぞれ信仰内容に「確信」を持つことを期待されるとなると、やがて私たちは、ある種の相対主義か懐疑主義(あるいはそのアンチテーゼとしての原理主義)に行き着いてしまうのではないでしょうか?*3

 

カルヴァン大学のジェームズ・K・A・スミス氏や、ジュネーブ大学のエスター・ミーク氏等は、そういった現状を見据えつつ、且つ、「懐疑主義でも原理主義でもない第三の道がある」ということを提示し、その方向で研究を進めておられます。*4

 

また、私自身も、現在、自分のいる小さな領域の中で「公同性*5」への一歩を模索しています。「プロテスタンティズムだけではもしかしたら十全ではないのかもしれない」という内的ダム崩壊をきっかけに、主は、その破れ口から新しい気づきと思いを私の心に与え、注いでくださっているのかもしれません。

 

私はかつてプロテスタンティズムに絶対の信頼を寄せ、また、井の中の蛙的な感じで、伝統諸教会をよく知らないままに裁いてしまっていました。そこには無知と偏見より来る霊的高ぶりがありました。でも、その事を悔い改めた後、私は新鮮な気持ちで、他の宗派の方々の公同的解釈や伝統に耳を傾け始めました。

 

いろいろとチャレンジや摩擦はあります。ですが、「個」という限られた資源が枯渇し、ストレッチされる中で、これまではむなしく戻ってきていたように思われた「個」のブーメランが、「公同性」のそよ風に当たり、なにか新しい動きを予感し始めているーーそんな気がします。

 

ー終わりー

*1:

*2:

*3: 

*4:Relativism as a Theology of Creatureliness. -- James K.A. Smith

*5: