巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

想像の二項対立図?ーーハイブリッド型オーソドクシーによる西方批判について考えたこと

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ダイコトミー(出典

 

福音主義から東方正教会に転向された欧米圏の元牧師や神学者の方々の文章を読んだり、直接的に意見をお伺いする中で、私にとり、以下のような点がより明らかになってきました。

 

それは、(彼らの文脈における)「東方」ならびに「西方」の鋭利な差異化や彼らが努めて描き出そうとしている二項対立図というのはーー彼らの意図に反しーー実質上、不可能ではないだろうかということです。

 

90年代に東方正教会に改宗したフランク・シェーファー(フランシス・シェーファーの息子)による西洋キリスト教批判及び正教弁護の本を読んだ正教徒の方が、ブックレビューに次のような感想を寄せておられました。

 

「この本はフランク・シェーファーの〈怒りの叙事詩〉シリーズの一章分に該当します。まず彼は、頽廃し、異教的で、世俗化した社会に怒りを向けました。そして本書では、彼はーーかつて彼を支えてきたーー西洋キリスト教に怒りの矛先を向けています。そして次に彼は自分の実の父親に怒り、その後、その怒りのサイクルを家族全体に拡張しています、、

 

 この本に良い洞察が皆無なわけではありません。しかしそれらはフランクの感情的独善性の中に埋め込まれているものによって不明瞭にされています。そして、これはそもそも正教ではありません。正教というのはそのもっとも真なる形態において、論争的でも教義主義的でもなく、それは深遠にへシカズム(静寂主義)的です*1。そしてこのへシカズムが本来の正教の霊性です。ドグマが大切でないと言っているのではありません。しかしそれは、神に関する経験を指し示すものとしての重要さであって、自分の論敵/思想敵たちを攻撃するために用いられる武器庫としての重要さではないのです。」(引用元

 

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右:フランシス・シェーファー、左:息子のフランク・シェーファー(出典

 

つまり、一般の(‟生粋の”?)正教徒の方から見ると、フランク・シェーファー版の正教は、ーーそのもっとも真なる形態においてーー西洋キリスト教エートスを基層に宿す一種の《ハイブリッド(混合種)型オーソドクシー》のように映っているのだと思います。

 

そういえば確かに、この界隈(「国境地帯」)には、ハイブリッド型の人々が多く生息しています。それゆえに尚更、元福音主義者の正教徒たちによる「アンチ西洋」論術には違和感を覚えざるを得ません。

 

全部が全部ではありませんが、この界隈の人々の多くは、「東方正教に改宗した」という自らのトランジット行為により、自動的に自分は「合理主義的」「個人主義的」「法廷的 "forensic"」「西洋キリスト教的」なあらゆるものから隔絶され(自由にされ)、そして完全に「外部者」の立場で「西洋的なもの」を批判・弾劾する権利を獲得したかのように考えているふしがあちこちでみられます。

 

宗教といわず政治といわず、およそ派閥主義(factionalism)と名のつくものは、ある所ない所やたらに相手との仕切り壁を築き、高い生け垣を作りたがります。そしてその際、往々にして用いられるのが、「差異」と「優劣/正誤」をダイレクトに結び付けるレトリックです。また共通項を最小化する一方、相違点を最大限に強調しようとする傾向も大です。

 

しかし「西洋では、西洋では」と口角泡を飛ばしつつ西方神学/教会を論駁することで、その人の中の「東方性」の純度が比例的に高まるわけでも確証されるわけでもないと思います。

 

たしかに西方キリスト教と東方キリスト教には違いがあります。そして私は個人的に、東方正教会の方々の鋭い西方教会批評をありがたく受け取っています。本当にここから学ぶことが多いからです。

 

その一方、自分の内在的ハイブリッド性に無自覚なまま、誰も乗り越えられないような有刺鉄線を国境線上に熱心に築こうとしているある一角の人々に対しては危惧を覚えています。

 

「西洋キリスト教伝統」の合理性/論術を無意識の内に享受・援用しながら、せっせと「西方教会」批判にいそしむ「東方」の人々と、「ギリシャ的思考」の論理(logic)を無意識の内に享受・援用しながら、せっせと「ギリシャ的思考」批判にいそしむ「ヘブライ的思考」の人々の間には、その意味で、類似点があるように思います。

 

その両事例において、人は自らを二項対立図の一方にシャープに対置させ、対立するもう片方を熱心に差異化/アナテマ化しようとするのですが、境界線の "fuzziness"(不明瞭さ)や自分の中のグラデーションに関しては比較的無自覚である場合が多いように思われます。

 

米国の政治学者ベネディクト・アンダーソンが1983年に『想像の共同体』(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism)という著書を出版し、ナショナリズムの歴史的な起源に対する重要な問題提起をしました。これは地上に存在するさまざまな種類の共同体の生成過程を多角的に考える上で参考になる文献だと思います。

 

ある共同体の構成員によって共有されているストーリーやものの見方、そして彼らによって制定される境界線や生け垣ーー。グローバル時代、これまで想像され、互いの間の仕切りとなってきた壁がガタガタと軋り始めています。

 

これは、私たちの安全地帯を揺るがすという意味でたしかに恐ろしいものですが、別の見方をすれば、この揺さぶりを通し、「果して、この『壁』や『二項対立図』は元来、神がご制定になったものなのだろうか?それとも人間の ‟肉” が勝手に設けたものなのだろうか?」ーーそのように自らの共同体の土台や世界観を問い直し検証する、またとない良い機会ともなっているのではないかと思うのです。みなさんはどう思いますか?

 

ー終わりー

 

*1:東方キリスト教会 (正教会) における神秘的修道思想およびその実践。絶え間ない祈りによって神を黙想し,それによって聖なる静寂 hēsychiaに達しようとした。その方法として身体をも整えることを重視し,不動のまま身体の中心を注視し各呼吸が祈りとなりイエスを思い起すよう修行した。 13世紀後半から体系化され,14世紀にアソス山修道院を通してビザンチン帝国で栄えたが,反対も強かった。同院の修道士でのちのテッサロニカ大主教グレゴリオス・パラマス はこの運動を擁護し,清められた人間の眼はかつてのタボル山でのイエスの変容のときの弟子たちと同じように神的光を見ることができるとした。これは正教会から承認され,運動は現在まで,特にロシア正教徒のなかに生残っている。ヘシカズムとは - コトバンク