巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

プラトン主義的伝統と抜本的に対立しているキリスト教信仰の三要素(by ハンス・ボースマ、リージェント・カレッジ)

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Fra Angelico, Last Judgement, Paradise, c. 1431, Museo di San Marco, Florence(出典

 

目次 

 

Hans Boersma, Heavenly Participation: The Weaving of a Sacramental Rapestry, Eerdmans, 2011, p.33-35(拙訳)

 

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Hans Boersma (1961-). J. I. Packer Professor of Theology at Regent College, Canada

 

対立する3つの要素

 

全般的に見て、教父たちは、プラトン主義的伝統のどの部分を受け入れ、どの部分を拒絶するかに関しナイーブではありませんでした。そして、キリスト教信仰の中にはプラトン主義的伝統と抜本的に対立する要素が少なくとも3つありました。*1

 

要素① 創造(creation)に関する理解の違い

 

まず第一に、そして最も重要な要素として、キリスト教信仰は、「神は必要に迫られてではなく、自由に(free to)ご創造された」という信仰を旧約聖書およびユダヤ教から継承しました。

 

クリスチャンにとって、創造は、ーー神の御意思の干渉的行為なしのーー神の存在より流れ来る自動的ないし必要不可欠な流出(emanation)ではありませんでした。*2

 

また創造は前から存在する物質や霊より出される排出(excretion)に過ぎないのではなく、むしろ、神は世界を自由にーー無より(ex nihilo)創造されました。たしかに世界を創造することは神にふさわしく適切なことでありますが、そうだからといって、それが〔神にとって〕必要不可欠な行為だったわけではありませんでした。創造はただ単に神の存在から流出してきたものではなかったのです。*3*4

 

要素② 物質(matter)に対する考え方の違い

 

二番目に、クリスチャンは、プラトン主義者よりも物質(matter)に対し、ずっと高い評価を下しています。プラトン主義者は物質を生来的に善なるものとは到底みなすことができませんでした。とどのつまり、物質というのは神的流出という選択の余地なき結果によってもたらされたものに過ぎず、それゆえに存在のヒエラルキーの最下位に位置していました。そして、そうであるからこそ、神的そして不滅の魂にとって物質的/死すべき体から解放されるにまさる幸はなかったのです。

 

それとは対照的に、創造に関するキリスト教教理は、ーー受肉および肉体の復活に関する強靭なる信仰と共にーー、物質的秩序に関するこういったプラトン主義的疑念に反駁しています。歴代に渡る教会の伝統を通し、キリスト者たちは物質ーー特に肉体ーーを、創造主なる神より賜いし善き贈物だと受け取り、これを肯定的に捉えてきました。*5

 

要素③ 神的なるものに対する理解の違い

 

三番目に、(自由行為としての無からの創造、及び創造の善に対する受容という)最初の二つの原則共、神的なるものに対する理解の違いに基づいています。流出説(Emanationism)というネオプラトニズムの教理は、存在のヒエラルキーを含意していますが、その最上位には、ひとつの単子(monad)という完成があり、その下にさまざまな神的形相やイデアが続き、そして最下位の領域には、多数(multiplicity)と物質で構成される不完全なる世界が存在しています。そしてこの不完全世界は、形相やイデアの領域を映し出しているのだとされています。

 

換言しますと、ネオプラトニズムは、絶対的単一性(absolute oneness)の原則を基盤に機能しています。つまり、一(いつ)は完全であり、多(た)は不完全なのです。そしてこの点においてクリスチャンはプラトン主義的伝統と激しく衝突しています

 

クリスチャンは、聖書がヒエラルキーの原則を映し出していることは認めており、それゆえに、この点においてはネオプラトニズムと対立していません。しかし他方、「一は完全を含意し、多は不完全性を含意している」というネオプラトニズムの見解に対してはクリスチャンはこれを受け入れていません。そして三位一体の教理が、神的モナーキーという不健全な形態に対する強靭なる拮抗を提供しています。つまり、「御父、御子、御霊は同本質(consubstantial)である」とキリスト教正統は主張しているのです。実に、一も多も、その両方が神ご自身の本質の心髄に立ち返っていくのです。*6

 

福音主義者の間で流通しているストーリー

 

こういった一連の事が示唆しているのは、クリスチャンたちは一般にプラトン主義世界観に対し、いつ「否」と言うべきかを心得ていたということです。

 

彼らはフィロン(BC20-AD50)のような中期プラトン主義者、プロティノス(AD204-270)やプロクロス(AD411-485)のような新プラトン主義者たちから何を受け取るべきで、何を拒絶すべきなのかをわきまえていました。

 

しかしながら残念なことに、福音主義クリスチャンの間では、「キリスト教の歴史の大半において、彼らは無批判にプラトン主義を受容してきたのだ」というストーリーが流通しています。時にそのレトリックの響きからは、「つい最近になって、幾人かの福音主義者たちの尽力により、人間肉体の重要性〔の教え〕がようやく回復され、こうしてついにプラトン主義的伝統という悪が克服された*7」という印象さえ持たれているほどです。

 

このストーリーはしかし、キリスト教思想の歴史についてというよりはむしろ、現代福音主義に関して語られています。またこういった福音主義者による言述は単に「聖書的」だと称されていますが、彼らは実のところ、ある哲学的枠組みと共にそれを行なっている場合が多く、この枠組みには「聖書の相関的言語は神のご性質を不毛にする」という前提が含まれています。*8

 

その結果、神に関する私たちの理解におけるラディカルな≪歴史化≫が生じ、こうして超越性が喪失していきます。*9

 

このアプローチは、全般的に言って、クリスチャンが実際、プラトン主義の行き過ぎを拒絶してきたという事実を無視しています。クリスチャンたちはーー創造および受肉においてとりわけはっきりと明示されているようにーー神的自由を熱心に主張していました。また彼らは大概において、物質的秩序の善に同意し、それゆえ、肉体のよみがえり及び、新しい天と新しい地という終末論的未来に対する自分たちの信仰を大切にしていました。そして最も重要なことは、彼らが神の三位一体的ご性質を熱心に是認していたという事です。*10

 

ー終わりー

 

*1:Louis Dupre, Passage to Modernity: An Essay in the Hermeneutics of Nature and Culture (New Haven: Yale University Press, 1993), 168参照。

*2:流出説は、プロティノスを通してプラトン主義伝統に入ってきた新プラトン主義の発展形です。フィロンの中期プラトン主義がオリゲネスとニュッサのグレゴリオスに強いインパクトを与えた一方、新プラトン主義はドニ(Denys)及びアウグスティヌスにインパクトを与え、それゆえに、西洋神学の伝統の大部分に影響を及ぼしました。さらなる詳説としては、Andrew Louth, The Origin of the Christian Mystical Tradition: From Plato to Denys (Oxford: Oxford University Press, 1981); Norman Russell, The Doctrine of Deification in the Greek Patristic Tradition (Oxford: Oxford University Press, 2004)を参照のこと。

*3:ルースは次のように述べています。「無よりの創造(creatio ex nihilo)という教理の明確な主張は、アタナシオス以来、教父神学における受容された前提になっており、これは、神と被造物の間、そして神と魂との間の存在論的隔たりについて開示しており、、、それゆえ、ある次元においてとにかくアタナシオスは、プラトン主義伝統と完全なる断絶をしたのです。」(Louth, Origins of the Christian Mystical Tradition, 78).

*4:訳注:Andrew Louth, Theology of Creation in Orthodoxy in International Journal of Orthodox Theology 8:3 (2017) .PDF

*5:ここでも、プラトン主義伝統からの教父たちの借用は、肉体およびセクシュアリティーの善に関する彼らの是認を決して阻止していないという事は言っていません。にもかかわらず、ニュッサのグレゴリオスのようなプラトン主義的思想家であってさえも、長いページを割き、肉体のよみがえりを擁護しています。(時に彼のプラトン主義的信念によりそうするのが困難であるように思われる際にもとにかく彼は肉体のよみがえりを擁護しています。)参照:Gregory of Nyssa, On the soul and the Resurrection, trans. Catherine Roth (Crestwood, NY: St. Vladimir's Seminary Press, 1980).

*6:訳注:

*7:

*8:非還元主義的な物理主義人類学の支持者およびオープン神論者たちは、キリスト教伝統のことを「プラトン主義と融合したことにより、純粋に‟聖書的”起源から堕落してしまったもの」として捉えています。

*9:デイビッド・ブラッドショーは卓越した著書Aristotle East and West: Metaphysics and the Division of Christendom (Cambridge: Cambridge University Press, 2004)の中で、キリスト教以前と以後におけるousia(本質)とenergia(エネルギア)の間の区別について詳述していますが、教父たちは常に前者のことを「人間の及ばざるものであり続ける」と捉えていました。こういった線上でのある種の区別は、神的なものが自然秩序化してしまう危険性を避ける上で必要なものではないかと思わされます。

*10:Robert Louis Wilken, The Spirit of Early Christian Thought: Seeking the Face of God (New Haven: Yale University Press, 2003), 136-61.