巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

苦難をとおしての勇気ーー信仰の勇者ーー(カール・ヒルティ)

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 出典

 

偉大な思想は、ただ大きな苦しみによって深く耕された心の土壌のなかからのみ成長する。そのような苦痛を知らない心には、ある浅薄さと凡庸さが残る。いくら竹馬に乗って背伸びしたとて無駄であるーー例えば、その竹馬が宗教的な、科学的な、それとも哲学的な性質のものであろうとも、あるいは人間的な特性であろうとも。

 

しかし、ひとは余儀なくされるのでなければ、だれがこの実り豊かだが同時に恐ろしい道にみずから進んで踏み入る勇気を持つだろうか?また、神の導きの手がなければ、だれが、時には毛筋ほどにも狭い、深淵のふちの小道を通りぬけることができようか?

 

ヒルティ著『眠られぬ夜のために 第一部』岩波文庫より 

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苦しみのなかにある人々はたいてい、かれらを慰めまた安心させようとしてくれる人自身が、自分の経験からかれらの苦しみの状態をほんとうに知っているかどうか、そしてかれらにすすめることをこの人自身が実際に実行しえたかどうかを、きわめて繊細な感覚をもって見分けるのである。

 

もし自分自身がそうでなければ、どんなに敬虔そうなことばもかれらの悩める心にはうったえない。これこそ、ダビデの詩篇がなぜ今日でもわれわれの心のなかに共感を呼び起こすかの理由である。それらは体験からにじみ出ている。

 

実人生は、他人を教える能力を、さらに神の召しとその身分証明とを与えてくれる学校である。これなしに、ただ自分で自分を紹介するだけの人には、人々は決して信頼を寄せない。パウロの上げるもう一つの理由は、かれが「極度に圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟」した、非常な苦しみのなかで学んだことであった。

 

それは「自分自身を頼みとしないで、死人をさえよみがえらせてくださる神を頼みとするためである。神は死からわたしたちを救い出してくださった。今も日々救い出してくださる。だからわたしたちは、神が今後も救い出してくださることを望んでいる。」

 

苦しみは人間を強くする。でなければそれは人間を打ちひしぐ。人が自分のうちに持っている素地に応じて、そのどちらかが決せられる。幸福の時には、苦難の時にどれほどまで耐えとおす力を持ちうるか、全く考えられない。苦難の中ではじめて自分自身を知るのである。

 

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苦しみの時には、決して自分自身と語ったり、被害妄想に陥ったりせずに、神と語らなければならない。それは、心にも、苦しみそのものにも、全く違った影響をもたらす。

 

絶対に人間を恐れてはならない。また憎しみや怒りに場を与えてはならない。それは苦しみを増すだけであり、また全く不必要だからである。*1

 

さらにまた、次のことも一般に経験される事実である。一度その絶頂を通り越えてしまったとき、苦しみはいちどきに消え去るのではなくて、徐々に退いていく。そのあと、しばしばもう一度短く押し返してくることがある。まだ残っている悪の禍根を除去しなければならないからである。

 

苦しみの絶頂は、神の意志への帰順の場所である。そして、特別に強くされた心にとっては、長いあいだ魂の忠実な、感謝すべき道づれとして、ほとんど慣れ親しんでしまったこの十字架からの別離が、一種の哀愁をよび起こすことすらありうるのである。このような感謝の実感が存在するならば、苦難はそのつとめを十全に果たしたのであり、その終結は確実に近づいている。*2

 

神とともにあって苦しむことは、神なしに生き、まして神なしに苦しむことよりもさらにまさった運命であることを、いつもはっきりと自覚していなければならない。

 

苦しみが自分の罪からきたものであるならば、なによりもまず、その原因である罪を遠ざけなければならない。でなければ、得ることのできる助け(第一ヨハネ3:21、22、第一テサロニケ5:9)と慰めを見い出さない。

 

それに反して、苦しみが神から送られたものであるならば、それは、間違いなく次のような良い性質を備えている。まず、その苦しみは、耐えられる力相応のものであり、その効果への確信からくる一種の甘美感をさえしばしば伴う。さらに、その苦しみは、決意(活動ないしは帰順の)によって克服されることができ、まさに求められているこの決意がなされるやいなや、苦しみは消え去りはじめる。

 

さらに苦しみは必ず人の精神に対して、以前は閉ざされていた新しい認識を啓示し、以前には持たなかった新しい力を与える。なおその上に、正しく克服された苦しみが、全く同様の仕方で繰り返されることは決してないことも付け加えておこう。

 

したがって、そのような苦しみはこの点で、将来の幸福をもっとも確かに保証し、また真に約束するものである。ところで、「自分の罪によって招いた」苦しみをも含めたいっさいの苦難は、それを正しい審(さば)きとして神の御手から受け取ることによって、右にあげた良い性質をすべて備えた「神からの」苦難となることができる。

 

人間が大きな進歩をするための道は、いつも苦しみによって開かれなければならない*3。他方また、特に昂揚した、強壮な気持ちは、ふつう、きたるべき苦しみに先行する励ましである。

 

したがってこのような種類の経験を何回か重ねてゆくうちに、もっとも幸福な瞬間には非常に抑制的で慎重になり、静かな真剣さをもってすぐ次に控えている試練のことを思い、それに反して苦難の時には、心のなかに喜びがあふれて、まもなく人生の新しい洞察と新しい段階が与えられることを確信する境地にまで到達できるのである。したがって、苦しみは抑制を教える。

 

苦難は通常、ことばの本来の意味ーー現代ではすっかり失われてしまったーーで、「試練」、すなわち負担能力の試験である。これによって、試練を受けた人の真の内面的価値が現わされ、この人がさらに進んだ段階に移されてよいかいなかが明らかになる。

 

したがって試練が訪れるのは、「いまや幸いな日々が過ぎ去り、苦しき日々が来った」ことではなく、また「沈着であれ、そして変ええざる運命に勇ましく耐えよ」ということでも決してない。それは「堅く立て、さらばそのほかの時にはありえない偉大な宝が訪れる」*4ということである。

 

それゆえ、ほんとうに偉大な人々の生涯は、試練の連続であり、その終局においては、死が復活の信仰によって耐え抜かれる。ものを考える人間にとって、このような一貫した教育ほど神の存在を証明してくれるものはほかにない(ヘブル10:35-39、12:1-6、12:11-12、ヘブル13:14)。

 

ヒルティ著『幸福論』(白水社)より

*1:申32:35、詩篇37:8-11、詩篇64:8-10、ローマ12:19-21、ヘブル10:30、箴言6:12-15.

*2:ルカ18:8、42。信仰が十分に存在するやいなや、救いは現れる。

*3:それゆえ、その道を拓かれたマイスター・エックハルトは、答えて言った。「きみたちを完全へと運んで行ってくれるいちばんの駿足(しゅんそく)の動物は、苦難である。」箴言22:4も同様に言う。「主を恐れつつ苦しみを受けることの報いは、富と誉れと生命(いのち)である」〔独訳による〕

*4:神は、最善のものを与えることができるために、まず多くの善きものをわれわれから取り去りたまわねばならない。でなければ人間の心は、あまりにもこれらのものに執着し、最善のものをつかむ勇気を持たないからである。いな、おそらく次のようにすら言ってよいであろう。まず先立って、人生の低い目的が不可能なものに、ないしは非常に困難なものにされないで、その高い目的に到達しえたような人はまだ誰もいないであろう。しかしいずれにしても人間はそのことに対して、少なくとも自分の事後的な同意を与えなければならない。そしてわずかばかりの銀貨のために、王冠をしりぞけてはならない。