巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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いかなるプロセスを経て「イエシュア=生けるトーラー」という教義が形成されていくのか?【ヘブル的ルーツ運動(HRM)検証】

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出典

 

目次

 

12 Undeniable Truths That Drive Law ‘Keepers’ Crazy | Joyfully Growing in Grace(抄訳)

 

トーラー遵守のコミュニティーには、トーラーに対する崇敬的固着がみられます。ですが、実際には、トーラーは神のご性質や御心を表したもの(representative)であって、それらの具現(embodiment)ではありません。律法遵守の人々は例えば、次のような事を言うでしょう。

 

「『トーラーは時間以前に存在していた。』『神がお語りになり、それによって被造物が誕生した。それではそうなさるに当たり、神は何をお用いになられたのだろう?そう、神の御言葉である!しかるに『神の御言葉』とは何ぞや?然り、トーラーである!さらにヨハネ1:1では何と言っているか?『はじめにことばがあった。』、、、ゆえに、トーラーは永遠なり!」

 

彼らはこの思考回路でもって、次には「ヨハネ1:1の『ことば』はトーラーである」と発展させ、そこからさらに進んで、『イエシュアは生けるトーラーなり』と論じています。(ヨハネが用いたギリシャ語logosの完全なる誤用。)

 

私は以前、『イエシュア=生けるトーラー』というのは、ヘブル的ルーツ/メシアニック・ユダヤ教、律法遵守系のセクトグループ界隈の中でも、かなり過激派に属する人々が抱いている思想ではないかと思っていましたが、実はけっこう広範囲に浸透している教えであることが後になって分かりました。彼らは明らかに異なるイエスを宣べ伝えています。

 

2コリント11:4-6

というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。たとい弁舌はつたなくても、知識はそうでない。わたしは、事ごとに、いろいろの場合に、あなたがたに対してそれを明らかにした。

 

「イエシュア=生けるトーラー」という教理の決定的ジレンマ

 

もしもイエシュアが生けるトーラーだとしたら、それなら、律法(Law)は確かに死にました。そしてもしも律法が死んだのだとしたら、それはもはや効力をもたないということになります。あなたは律法遵守の方でしょうか。もしそうなら、あなたは『律法は死から蘇られたのです。』とおっしゃるつもりでしょうか?

 

それとも、あなたは、(律法を‟遵守する”ためにそうするのと同じように)律法をバラバラにしますか。あなたはイエシュアをバラバラに切り離した上で、御言葉の「ある一部分」が死に明け渡されたに過ぎないーーそうおっしゃいますか?律法は果して‟復活”されたのでしょうか?律法遵守の人々は、このような非聖書的教義でもって、自らの神学をズタズタに裂いてしまっています。

 

健全な教理は、聖書が証言しているように、イエシュアを神の満ち満ちた豊満性にまで高揚します(コロサイ2:9-17)。他方、律法遵守の教理は、イエシュアを、成文法典(written code)にまで弱め減少させています。

 

もしもあなたが「イエシュア=生けるトーラー」という教理を信じているのなら、律法は死にました。聖書は、信じる人にとってキリストは『律法の終り/目標*1』と言っています。*2

 

訳者補足ーー意味論の領域における再解釈の試み

 

「律法(Torah)が死に、三日目に復活した」??!という明らかな論理的矛盾を乗り越えるため、「イエシュア=生けるトーラー」説支持の人々がしなければならないことは、意味論の領域における再解釈です。参考までに、「イエシュア=生けるトーラー」説支持の方がどのようにして意味の再解釈を試みているのか、資料を抜粋したいと思います。

 

תורה (Torah)とは?(『牧師の書斎』サイト収録文献より引用)

 

★問題点

①律法という翻訳は正確な翻訳ではない。ヘブライ語のתורהはギリシャ語で単純にνόμοςと訳すことはできない。

②תורהのヘブライ語の意味:教え、指針、原理  

新約聖書ではトーラーを殆ど律法と訳しているギ νόμος(Nomos)しかし、νόμος(Nomos)はヘブライ語のトーラーより、もっと多様な意味を持っている言葉である。慣習、習慣、原理(ローマ7:21)憲法、市民法(ローマ3:2, 7:1-2)国家権力(ローマ8:2)ユダヤ教の宗教法(エペ2:15)律法主義(ローマ6:14)

③νόμος(Nomos)は「律法」という翻訳ではなく、聖書の御言葉、神の御言葉と訳す方が良い。  

モーセに関する言葉(ローマ9:4, マタイ5章)詩篇の引用(ヨハネ10:34, 詩82)イザヤ書の引用(Ⅰコリ 14:21, イザヤ28:11-12)トーラーは狭義においてはモーセ五書だが、広義においてはモーセ五書だけに限られるものではなく、聖書全体をも含む概念でもある。

★相応しい翻訳「תורהの名」  

トーラーを私たちは「モーセ五書」或いは「律法」と呼んでいるが、これは私たちの観点を反映している名前であって、これらがトーラーの正確な名ではない。

聖書の中でתורה自身が語っている名が重要である。①契約の書(出24:7)②証拠、さとし、おきて(出25:16)③みおしえの書、主のおしえ(申28:61, 29:21, 30:10 ヨシュ1:8, 詩19:7)

トーラーは神との契約の書であり、今も生きておられる神に会う証しの 書であり、神の教えとさとしを与える書である。トーラーは法律ではない。トーラーは恵みとぶつかる相反するものではない。創世記から黙示録までの全聖書が神様が私たちに与えてくださった「おしえ、指針、 原理」すなわち、תורהである。(以上、引用おわり)

 

上の引用文に対する訳者の所感

 

「新約聖書ではトーラーを殆ど律法と訳している。」

しかしこの文章には少し語弊があると思うのですがどうでしょうか。「新約聖書ではトーラーを」というよりはむしろ、「新約聖書ではνόμοςを殆ど律法と訳している。」ではないでしょうか?それとも、この言明は、新約による旧約引用文(LXX)におけるギリシャ語と旧約ヘブライ語原典との照合という意味での「新約聖書ではトーラーを」なのでしょうか?

 

つまり、私が伺いたいのは、「新約聖書ではトーラーを」という文脈の中の「トーラー」というのは、旧約引用文というより限定された領域での語用のことを指しているのか、それとも、それよりも、より広範囲な語用のことが筆者の念頭にあるのかーーそのどちらなのでしょうか?

 

また、「律法という翻訳は正確な翻訳ではない。ヘブライ語のתורהはギリシャ語で単純にνόμοςと訳すことはできない。」ということですが、これも、敬虔で学識のある日本の翻訳委員会の先生方が、七十人訳(LXX)におけるνόμοςの語用や、ヘブライ語原典でのתורהとの対照・照合、そしてこのテーマに関する膨大な学術研究の積み重ねを基に、充分に熟慮された上で、新約聖書における日本語の訳語を決定されたのだと私は理解しています。

 

もちろん、この翻訳作業は非常に難しく、多くの方々の大変な努力と現在に至るまでのさまざまな模索があるかもしれませんが、日本語訳聖書の翻訳史を振り返る時、私たちは先人たちの尽力と知恵にもう少し信頼してもいいのではないかと思います。

 

とは言え、この差異は、新約写本そのものに対する私たちの基本的見解の違いに根付いていると思うので、根が深いと思います。というのも、ヘブル的ルーツ運動に関わる多くの人々は、「新約聖書のオリジナルはヘブライ語ないしはアラム語である*3」という信奉を持っているからです。引用句の筆者がこの信奉を持っておられるのかそうでないのかは分かりません。しかし仮にそうだとすると、上述の「新約聖書ではトーラーを」という句は、より広範囲の語用のことが念頭に置かれている可能性が高いと思います。

 

私の懸念

こういったアプローチ及び教えが日本の教会の信徒たちに及ぼす深刻な悪影響の一つは、信徒たちの心の中に(新改訳や新共同訳、口語訳聖書といった)標準的日本語翻訳聖書に対する不信感が生じて来る点ではないかと思います。なぜなら、これらの翻訳聖書はいずれも、Greek primacyの正統的立場に立ち、ギリシャ語新約原典から日本語に翻訳しているからです。

 

そして、ひとたび日本の一般的標準聖書に対する不信感が植え付けられると、今度は、それらの聖書を用いている一般キリスト教会の牧師や信徒に対する不信感/軽蔑心が生じてくるでしょう。あるいは、ほとんどの教会の牧師や信徒が知らない「新約聖書のオリジナルの意味」を解き明かしてくれるHRM系列の教師たちに過度に依存していくことになるでしょう

 

HRMの世界に足を踏み入れ始めた人々が、次第に既存キリスト教会から遠ざかっていく理由の一つもこういう「植え付けられた不信感」に端を発しているのではないかと思います。

 

ー以上、訳者の所感でした。ー

 

ヘブル的ルーツ運動/メシアニック・ユダヤ教の聖書解釈

 

律法遵守のセクト諸グループ内には、安定した解釈や教えの枠組みがあるわけではありません。彼らは釈義(exegesis)よりも恣意的読み込み(eisegesis)を行ない、また、音訳(transliteration)、ミドラーシュ、立証テキストを用いています。また、時と場合により、自らの目的に合わせ、いわゆる「ヘブライ的」思考*4と「西洋的思考」の間を往ったり来たりしています。

 

またある人々に至ってはついに、「再翻訳された聖書 ‘re-translated Scriptures’ 」を用いるところまで進展していっています。ーーつまり、彼らが「オリジナルのヘブライ語ないしはアラム語の新約聖書である」と主張しているところのものから翻訳された聖書のことです。

 

換言しますと、これらの人々は、新約聖書におけるギリシャ語優位性(Greek Primacy)を拒絶し、キリストのみからだの中に、ありとあらゆる種類の新解釈を持ち込み始めているということです。

 

 

これらの人々は、使徒たちが実際に福音書や書簡の中で用いている特定のギリシャ語を、――彼らHRM/MJ系の教師たちがヘブライ語ないしはアラム語に‟相当する語(equivalents)”と考えているものーーに置き換えていくこと(substitute)を自らの目標としています。

 

そしてこういった試みによってすでに影響が及ぼされている主要聖書教理は、ーー例えば、「義認」、「悔い改め」、「ことば」、「掟」、「成就」などの語にかかわるものです。

 

しかし皆さん、考えてみてください。もしもHRM/MJismが本当に真理なら、この信仰体系は平易な聖書の読みによっても耐久可能なはずですし、聖書を自らの思考法にフィットすべく、あれやこれやと神学的解釈の新案を打ち立てる必要はないはずです。

 

まとめ:ヘブル的ルーツ運動/メシアニック・ユダヤ教の教えにより持ち込まれた混乱した教え

 

ーイエスは生ける神ではなく、「生けるトーラー」。

 

ー「新契約」が「更新契約」に変更されています。これは旧約および新約聖書で使われている語の完全なる誤用から導き出された教えであり、これにより、彼らはモーセ契約における律法に立ち返るよう人々に説いています。しかし福音はそのような事は何も要求していません。

 

ー悔い改め(repentance)という語の曲解。この曲解により、彼らは、(罪から離れ、十字架に向かい、神がキリストの内にあって私たちに望んでおられる新しい被造物に向かう代わりに)「モーセ契約の律法に立ち返ること=神に立ち返る」という教義を打ち立てています。

 

ーいつも「イエシュア」プラス「律法遵守のためのなにか」です。つまり、イエシュアに対する信仰、プラスあなたが遵守義務のある諸事項ということです。そしてもしもあなたがその義務を怠るなら、あなたはよくて「御国で最も小さい者」そして最悪の場合、「御国から完全に追い出される者」とされます。

 

ー彼らはトーラー中心であって、キリスト中心ではありません。

 

ーある人々はタルムード系の資料やメソッドを用いていますが、その過程で(それらの教えの起源がどこかを知らずに)聖書の神秘主義的諸解釈を用いるようになっています。また仮にそれらの資料/メソッドの神秘主義的ルーツに気づいたとしても、その時点でもはや彼らにとってそういう事は警戒すべきことではなくなっています。なぜなら、彼らはすでに律法に堅く堅く結びついているからです。そして、その時までにはもう、覆いがしっかりと覆われるようになっています。(2コリント3章)

 

ー終わりー

 

関連記事

*1:訳注:別訳「律法の目標」新改訳欄外註より。τέλος γὰρ νόμου Χριστὸς Romans 10:4 Greek Text Analysis

*2:訳者補足;ヘブル的ルーツ運動(HRM)の大半の人々が用いている翻訳聖書The Complete Jewish Bibleでは、ローマ10:4の箇所を以下のように英訳してあります。 

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4 For the goal at which the Torah aims is the Messiah, who offers righteousness to everyone who trusts. (CJB) 

(私訳:トーラーが目指している目標はメシアであり、この御方は彼に信頼する全ての人に義を提供しています。)

ギリシャ語τέλος γὰρ νόμου Χριστὸς εἰς δικαιοσύνην παντὶ τῷ πιστεύοντι.( Nestle GNT 1904)

τέλος, -ουσ, τό ①終り、終了、終結、終点、消滅、②成就、完成、仕上げ;結末、(究極の)目標、③〔通常複〕税、税金:特に通行税、使用税、関税の類。

νόμος, -ου, ὁ (<νέμω, 分配する、割り当てる)「割り当てられ、制定されたもの;しきたり、慣習、法。①法(一般)、法律、おきて、法令、法則;ローマ3:27、7:2、ヤコブ1:25、2:8.②行動を制御または行動へと駆り立てるように内部から働く力、原理、法則;ローマ7:23、8:2、ガラ6:2.③律法、モーセ律法;ヤハヴェを信じる民の信仰と倫理を規定し、犠牲奉献を中心とする礼拝儀式を定めた聖なる書の総体、旧約聖書に示された律法、またはモーセ五書;マタイ7:12ὁ νόμος καὶ οἱ προφῆται, 律法と預言者たちと;広義には旧約聖書に記された全内容、狭義には五書と預言書。」 織田昭著『新約聖書ギリシア語小辞典』

岩波翻訳委員会訳1995 なぜならば、〔神の義によれば、〕キリストは信ずる者すべてに義が〔行き渡る〕ために、律法の終わりと〔なられた〕からである。

新共同訳1987 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

前田訳1978 キリストは信ずるものすべてが義とされるため、律法の終わりとなられました。

新改訳1970 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。

口語訳1955 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。

文語訳1917 キリストは凡て信ずる者の義とせられん爲に律法の終となり給へり。

*3:

*4: