巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「新約聖書のヘブル的解釈」「イエシュア=生けるトーラー」等の考え方をバックアップしている思想的背景について

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 あらゆる新運動にはそれを支える神学があり、思想がある。

 

目次

 

牧師の書斎』に収録されている文書群より

 

引用1

旧約聖書は初めヘブル語で書かれ、新約聖書はすべてギリシャ語で書かれたというのがキリスト教界において広く知られている通説です。しかし新約聖書は、旧約聖書の土台の上に書かれた、言わば旧約聖書の続編です。

 

旧約聖書がヘブル語で書かれたならば、その続編である新約聖書もヘブル語で解釈するべきではないかと思わされました。特に福音書は、ヘブル語を公用語とするユダヤ人としてお生まれになったイェシュア(イエスのヘブル語的発音)が、イスラエルを行きめぐり、同じくヘブル語を話すユダヤ人たちに対して語りかけ、働きかけた内容が記された書です。

 

ですからギリシャ語で解釈するよりも、ヘブル語で解釈する方が自然です、、新約聖書をヘブル語で解釈する。この新しい試みの初めとして、ヨハネの福音書を選びました。

神田満師 ヨハネの福音書のヘブル的講解〔強調はブログ管理人〕

 

引用2

イェシュアの(תורה)トーラー理解

黙示録1:8 אֲנִי הָאָלֶף אַף אֲנִי הַתָו

黙示録でイェシュアはご自身について、「わたしはアレフであり、ターヴである。」と宣言された。決して、アルファでありオメガであると言われたわけではない。詳しい説明はこの紙面ではできないが、イェシュアの言語はヘブライ語である。

 

トーラーの言語であるヘブライ語は、アレフからターヴまでの23文字からなっており、黙示録1章8節でイェシュアが言われている言葉の意味は、ヘブライ語の文字の一つ一つすなわち、アレフ~ターヴまでがイェシュアを指し示すものであるという意味でもある。イエス様ご自身がリビングトーラーתורהである。(The Living Torah.)

金聖圭師「תורה(Torah)とは?」(2014年、石狩ダビデの幕屋(iTOD)祈りの家にて発表)〔強調はブログ管理人〕

 

要点

 

引用1の要点

ー旧約聖書の続編である新約聖書もヘブル語で解釈すべきである。

ーギリシャ語で解釈するよりもヘブル語で解釈する方が自然である。

 

引用2の要点

ー黙示録1:8でイェシュアが言われている言葉の意味は、「ヘブライ語の文字の一つ一つすなわち、アレフ~ターヴまでがイェシュアを指し示すものである」という意味であり、イェシュアご自身がリビングトーラー(The Living Torah)である。

 

考察1 依拠している解釈法について

 

ー両者共にディスペンセーション主義聖書解釈法を基盤にしている。***

ー「イスラエルを軸とした」聖書理解。

 

 

考察2 言語における慣習性について

 

ー「ヘブル語とその文字が御子イェシュアを啓示する言語である」(ココ)との言明通り、『牧師の書斎』は、「言語における慣習性(conventionality)」を認めていない。(実例:「へブル文字に表された意味」

 

しかし言語における慣習性はすでに福音主義学者たちのコンセンサスとなっており、D・A・カーソン(トリニティー神学校)、ダニエル・ウォーレス(ダラス神学校)、アンソニー・ティーセルトン(ノッティンガム大)、モイセス・シルヴァ、ジェームズ・バー等いずれも、「文字という記号の恣意的性質」を是認している。

 

また、この部分における言語思想の誤りが、「語根にかかわる誤謬」「言語とメンタリティーを連結させる誤謬」等、さらなる誤解釈へと拡大していくことが例証されている。(参:D.A.Carson, Exegetical Fallacies)

 

例えば、引用2の筆者は、「תורהとは?(=トーラーとは?)」と題し、「ヘブライ語の文字の一つ一つがイェシュアを指し示すものである」という自見解の正当性を証明すべく、次のような驚くべき意味解釈を施している。

 

ת ターヴ:十字架、完成

ו ヴァヴ:釘、人

ר レーシュ:かしら、初め

ה へー:見よ!

 

十字架にかかられ、釘打たれた、かしらなる人、すなわち、神の御子イェシュアを見よ!(引用元

 

しかしながら、上記の聖書学者たちが述べているように、こういった解釈は、言語学的にも釈義的にも全くナンセンスである。

 

関連記事

 

考察3 「イェシュア=生けるトーラー」

 

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ー「イェシュアご自身がリビング・トーラーである。」(引用2)

 

Yeshua is the Living Torahという言明は、ヘブル的ルーツ運動(HRM)のキーフレーズの一つ。以下、実例。

 

Yeshua the living torah

↓エルシャダイ・ミニストリーズ

El Shaddai Ministries, How Jeshua "Jesus" Views the Torah (PDF)

*日本語では「生けるトーラー」「生けるトラー」「リビング・トーラー」等のキーワードで検索することができます。

 

まとめ

 

引用1および引用2の主張は、ディスペンセーション主義聖書解釈法を基盤とし、「イスラエルを軸にした」聖書理解の上に構築されている。また、言語学的には、保守的な聖書学者たちのコンセンサスから逸脱した言語観を持ち、そこから極めて独自の意味解釈を施している。

 

「旧約の光で新約を解釈する」というreversalな方法論および、言語学的アナクロニズムにより、これらの解釈者たちは、幹線道路を逆方向に疾走しているのではないだろうか?

 

ー終わりー

 

【補足資料】「日本福音同盟(JEA)がなぜアッセンブリー教団しか加入を認めないのかについてーー啓示問題」

 

「レストレーション運動」についての考察 ①より一部引用

 

「 JEAがなぜアッセンブリー教団しか加入を認めないのか、それは啓示問題でした。聖書啓示の上に直接啓示を置くかどうかです。預言運動、新使徒運動の教会は加入できないのです。 」

 

⑨普通の福音派は、「1.聖書的適格性、2.正統的公同性、3.今日的適用性、4.学問的革新性」の四つの要素を大切にします。レストレーション運動の教えは、この四つの視点からみますと、聖書的に不適格な聖書解釈、正統的公同性からの逸脱、今日的に問題のある適用、学問的問題性が数多く見られます。

 

⑩誤った教えの代表的なものには、三位一体を否定したワンネスの教え、教職制度の発展の歴史を否定的に見る「使徒職・預言者職」の回復の教え、ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムに基づくイスラエルの土地・エルサレム・神殿(ダビデの幕屋)回復の教え、等々があります。

 

⑪これらの誤った教えの根源に、誤った「啓示論」があると思います。普通の福音派では、聖書は「完結した啓示」であり、いわば「完結した遺言」のようなものです。その遺言を、書き加えたり、削ったりすることは犯罪にあたります。

 

「私たちは、旧・新両約聖書全体が、神の霊感による、真実で、権威ある唯一の書き記された神のことばであり、それが確証するすべてにおいて誤りがなく、信仰と実践の唯一の無謬の規範であることを確認する」という啓示論にたつとき、わたしたちは「不変の、共通のデータ」から「共通の福音理解」を受け取ることができます。これが、福音派には教派的多様性があっても、その「福音理解」においてはほとんど共通になる理由です。

 

⑫レストレーション諸運動においては、いわば「もぐら叩き」のように、普通の福音派から「異端的」といわれ、叩かれても、叩かれても、次から次へと「誤った教え」が量産されてくる根源には、「啓示論」の問題が存在すると思います。(中略)

 

⑬エペソ2:20には、「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」とあります。聖書は、旧約のユダヤ主義的な“殻”を脱ぎ捨てて、ユダヤ人も異邦人もないと使徒たちが語っているにも関わらず、トム・ヘス著『ダビデの幕屋』では、使徒の教えと異なる教えが満ちています。

 

(※使徒的聖書観と使徒的聖書解釈は、わたしたちに何が“真札”であり、何が“真水”であるのかを教えてくれます。ほとんど見分けがつかなくても“偽札”は偽札であり、“塩水”は真水ではありません。ほんの小さな「飛行角度」の誤差が、長い飛行の後に別地点に連れて行くのです。)

 

⑭今日のレストレーション諸運動の多くの集会では、『ダビデの幕屋』の回復運動の人たちが主導権をとっています。『祈りの塔』や『エンパワード』や『ホームカミング』や『…を慕い求める祈り会』等も、同様の運動の流れの延長線上にあるように思います。(※これは、長期の視点でみますと、決して見過ごせない“誤差”なのです。)

 

⑮米国で起こっているさまざまな運動を分析した本で、以下のようなことが書かれています。これまでの教会・教派は「共通の福音理解」の近い教会同士で形成されてきたが、近年みられたヴィンヤード運動等では、「共通の方法論」で群れを形成するかたちが生まれてきた、と。

 

つまり、教理的背景はバラバラなのに、礼拝形式・賛美形式、癒しの実践等々で「共通の方法論」を掲げて群れを形成していった例です。(※「ダビデの幕屋」のグループの方は、賛美や礼拝の専門家、ないしセミ・ブロフェッショナルのような方が多いように思います。しかし、そこにわたしたちが陥りやすい「誘惑」があり、陥ると抜けられない「罠」があるように思います。)

 

⑯しかし、ヴィンヤード運動では、後に内部で次々と問題が噴出してきました。そして、ジョン・ウィンバー牧師たちは「トロント・ブレッシング問題」等、その問題の処理に振り回されることになりました。

 

そのような混乱が起こり、英国では、ロンドンにあるホーリー・トリニティ・チャーチ・ブロンプトン(HTB)からアルファ・コースが誕生し、「健全な教え」を強調し、英国のカリスマ運動で重要な働きをするようになりました。

 

やはり重要なものは「方法論」ではなく「福音理解」であることを教えているのではないでしょうか。(※「方法論」で栄えるのは一時的であると思います。そして一定期間の後に、「福音理解」において取り返しつかない“傷”を負っていることに気がつかされることになると思います。“異なった福音理解”は、“ひえやあわ”のように繁殖力が旺盛であるように思います。一度、混入すると、それを完全に取り除くことは不可能といっても良いと思います。)

 

⑰現在、日本では、S.T氏やT.N氏を中心に賛美集会、主を慕い求める集会が集中的に行われているようであるが、それらの運動や集会の背景や福音理解については知っているだろうか。それらは上記のレストレーション諸運動を背景にし、それらの福音理解を内包している。

 

⑱わたしは、「集会形式」がJECまたKBIと合っているとか、似ているとかで、それらの集会に参加したり、それらの講師を招いたりすることは大変危険であると考えている。わたしは、「レストレーション諸運動の中にある “啓示論” に根ざす “さまざまな誤った教え” は、米粒に混じって蒔かれる “ひえやあわ” の種粒に似ている」と受けとめている。最初は「米粒」が蒔かれるのであるが、会衆がリーダーを信頼し、心を開いてくると「ひえやあわ」が蒔かれる危険が増してくるように懸念している。

 

⑲その集会のときには、あまり影響がないように見えても、私たちの心の田畑に蒔かれた種は、時を経て “実を結ぶ” ようになる。田畑に広範に蒔かれた後に、取り除くことはほとんど不可能なことである。

 

良い稲まで引き抜く危険もある。「三つ子の魂、百まで」といった感じである。わたしは、「ディスペンセーション問題」克服のために尽力してきだが、信仰の初期に蒔かれたこれらの教えを払拭することはどんなに大変なことであるかを身をもって知っている。

 

ある人の場合は、それを取り除き健全な教えに回復することはほとんど不可能である。牧師であってもそのような人をときどきみかける。それは間違った教えが「血なり、肉となってしまって」取り除けないのである。

 

⑳そのような意味で、最善の選択は、集会の宣伝上手に魅かれて、「ひえやあわの種粒」が蒔かれるかもしれない集会に信徒をつれていかないことである。参加しないよう説得することである。自分こそは大丈夫と思って参加しないことである。間違った教えの集会や交わりからはできるだけ遠ざかることである。

 

※JECとKBIは、現段階では、福音派の間でその福音理解において、「エリクソン著『キリスト教神学』のような福音理解の群れ」であると信頼されているが、このままレストレーション諸運動との交流をいろんなレベルで深めていったら、JECとKBIはレストレーション諸運動の一部とみなされる日がくるかもしれない、「グレイゾーン」に位置する流れであると受けとめられる日が来るのではないか。

 

外見的な評価だけでなく、中身も「レストレーション化」していくのではないかと懸念しているところである 。そうならないように、次世代の先生方には、福音理解のセンターラインを死守していただきたいと思うのである。

 

信用を得るには、数世代の時間を必要とするが、それを失うのは実に簡単である。そして再びそれを得るためには数世代を必要とするのである。先輩の先生方とともに築いてきた信用を大切に守り抜いていただきたいものである。わたしは、それが今、失われようとしているのではないか、それを真剣に心配している。