巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「改宗させる」使命以上に、羊の「なぜ」に共に取り組んでくれる牧者を求めて

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たくさんのお店(出典

 

目次

 

「あなたは今、惑わしの中にいます。」

 

新教と正教の境目辺りにいる私のことを危ぶんだある牧会者の方(カリスマ派)が、「あなたは今、『ギリシャ的思考』の中で惑わしにあっており、正教云々というのはサタンからの攻撃に他なりません」と連絡してこられました。

 

そこで私はこの牧師さんの批判内容の真偽を確かめるべく、正教の神父さんに次のように質問しました。

 

「ドイツの自由主義神学者アドルフ・フォン・ハルナックの『(初代教会)ヘレニズム化説("hellenization thesis")』に対し、歴史家ヤロスラフ・ペリカンが70年代に有力な反証をしましたが、ペリカンのこの反証内容は、正教会で一般的なコンセンサスを受けているのでしょうか。それともこれには賛否両論あるのでしょうか。」

 

すると、回答があり、この神父さん自身は、J・ペリカン説を支持しているけれど、他の神父たちがこの件に関しどのような見解を持っているのかは知らないし、このテーマについて話し合ったこともないとのことでした。

 

そしてこのような質問をしてくる私をやや難じる形で、次のように書いてこられました。「正教というのは『考える』なにかではなく、『する』なにかです(Orthodoxy is something to do, not something to think.)」

 

そして、私のように正教を「興味をそそる単なる知的エクササイズ」のように取り扱っている限り、それは「乾いた土地の上でスイミングをするようなもの」であり、そのため、「あなたがいくら本を読み、勉強し、ビデオをみても」実際に正教信仰というリアルな体験の中で「泳いでみない限り、いつまで経っても真理の道は分からないでしょう」と。

 

「シンプルに信ぜよ」とはどういう意味だろう?

 

私は、新教、正教その両方の聖職者の方々の対応の仕方に悲しみを覚えました。この牧師さんは某宣教団体で「ギリシャ的思考 vs ヘブライ的思考」のセミナーを受けておられるそうですが、この団体はヘブル的ルーツ運動(HRM)との関連が疑われています。

 

そのため、この方の視点でみると、私は(「理論を強調し、知識を得るために学ぶ」)「ギリシャ的思考」にはまり込んでおり、従って、純粋な福音の真理にしっかり立てていない(=「行動を強調し、実践するために学ぶ」「ヘブライ的思考」つまり ‟聖書的” 思考ができていない)ということになるのでした。

 

たしかに「シンプルに信じてください」とおっしゃる牧師さんのメッセージ自体はよく分かるのですが、「シンプル」に信じた結果、この牧師さんは結局、ヘブル的ルーツ運動(HRM)の問題点を見抜くことができずにいらっしゃいます。そうすると、「シンプルに信じるってどういう事なんだろう?」と立ち止まざるを得ません。

 

また、正教の神父さんに対しては、「私の質問行為のことを、『興味をそそる単なる知的エクササイズ』と表現された事に対し、私は深い悲しみを覚えました。」とお返事しました。

 

そして「『正教というのは ‟考える” なにかではなく、‟する” なにかです。』ということですが、皮肉なことに、プロテスタント・カリスマ派の一角にも『 ‟聖書的” 思考というのは、‟考える” なにかではなく、‟する” なにかです。」と主張しているグループがあります。そして正教といわず新教といわず、それぞれの派がそれぞれの真理主張に基づき、『あなたは今惑わされており、未だ ‟本来あるべき真理の道” に入っていない』ということを私に信じさせようとしています。」と申し上げました。

 

ある意味「お店は一つではない」という現代の厳しいリアリティーを分かってほしい。

 

新教の牧師さんからは「あなたはもっとシンプルに福音を信じ、福音の真理に立たなければなりません。」、そして、正教の神父さんからは「知的思索をいくら続けたところで体験的正教の奥義は分かりません。だから〔正教の〕水の中に思い切って飛び込み、泳いでみなさい」と言われました。

 

両方の言わんとすることはよく分かります。また、確かにいつまでも「知的思索」を続けたところで、分からないものは分からないでしょうし、御霊の助けにより、いつか「海に飛び込む」決断と実践への勇気が与えられることもあるでしょう。

 

しかしたといそういう要素があったにせよ、私は道を求める一介の羊として、神父や牧師の方々にお分かち合いしたいことがあります。

 

お店の中におられる先生方にとっては、真実なるお店は『一つ』であり、それが『一つ』であると先生方が堅く信じておられることに私は最大限の敬意を払っています。

 

しかしながら、現在の高度情報化時代にあって、(先生方にとってそれが『一つ』であるという信奉の説得性の有無に拘らず)、現実問題として、私たち羊の前には、似たようなお店がいくつも並んでおり、それぞれのお店の前には「聖書的」なり「歴史的キリスト教」なり「使徒的」なり、そういう看板がわんさと掲げられているのです。

 

そのため、羊たちはできることなら、「シンプルに」信じ、「水の中で泳いでみる」ことができたらどんなにいいだろうとは思っているのですが、現代の宗教多元主義というお店陳列の時代にあって、「飛び込み」行為は実際、本当に難しいのです。

 

「改宗」のお手伝いをするとはどういうことだろう?

 

また前述の神父さまは、25年前にプロテスタンティズムから正教に転向され、「福音主義の牧師の方々を正教の真理に導き、帰正させるお手伝いをすること」に使命を持っておられるそうです。

 

それなのに、この方は、私が提出した正教と新教の相違点と類似点に関する質問表の中に出てくるプロテスタント関係の著述内容を一切ご存知なく、「私は改宗後、heterodox(異教/非正教)関係の本は一切読んでいませんので。」とおっしゃいました。

 

そして「あなたも今後、プロテスタント関係の本を読むのをやめ、正教のオリジナルの著述を読むことを推奨します。その中で段々とあなたはあなたの持つ問いの答えを得るでしょう。」と提言なさいました。

 

しかしこれがプロテスタントを正教に「改宗」させることを使命としている方のあるべき姿なのでしょうか?私は「改宗」という観念自体に反対しているのではありません。正教が本当に唯一の真理の道ならたしかに「改宗」という言葉は適切なはずですから。

 

でも、、それが果たして最終ゴールなのでしょうか。プロテスタント信者を「改宗」させるということは、つまり、プロテスタント信者を愛するということではないでしょうか。そしてプロテスタント信者を愛するということは、プロテスタント信者が現在、どんなことで葛藤し、苦しみ、悩んでいるかということに具体的に心を砕き、関心を持つことではないでしょうか。

 

「Heterodox(異教/非正教)関係の本は一切読んでいませんので。」でも、heterodox関係の本を読まずして、どのようにしてheterodoxの人々の抱える大小さまざまな問題が分かるというのでしょう。

 

25年の間に、エヴェンジェリカル界は大きく変わりました。宗派の違いを超えたグローバルな諸問題に加え、今も尚、福音主義に特有のさまざまな問題や課題があります。そして牧師も信徒もさまざまなチャレンジの中に置かれています。

 

「知的思索をやめなさい。heterodox関係の本を読むのをおやめなさい。そして正教の水の中に思い切って飛び込むのです。」ーーしかし、これが果たしてプロテスタント信者を真に助けるやり方なのでしょうか。一人の人間がもう一人の人間を導くやり方なのでしょうか。

 

すべてを益としてくださる主に信頼して

 

しかし他方において私は、自分の通らされている凸凹(でこぼこ)な道すじ、迷い、放浪、出会い、別れ、その全てに感謝しています。なぜなら、キリストのみからだの公同性の中で、「個」の体験はーー孤立した閉鎖カプセルではなく、むしろ、みからだの中の他の部位と共有され、辛苦・喜びを共にするためのものとして、時に適い生かされると信じているからです。

 

最後になりますが、それぞれの仕方で、真理を提示し、私の助けになればと最善を尽くしてくださった新教の牧師さんと正教の神父さんにも感謝し、お二人の牧会生活の上にさらなる主の恵みと憐れみが注がれますようお祈りします。

 

ー終わりー

 

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