(サンプル1)
「神の言葉=聖書だけにもどり、ヘブライ語のオリジナル原語で書かれた、オリジナルの神の言葉の真実だけを土台に検証し始め、神の言葉の中に書かれている内容を、書いてある意図通り、曲げずに学んでみれば、トラーが、永遠不変の神の口から直接語られた言葉だと、はっきり書いてある。翻訳でもそう書いてあるのです。そして、トラー=言葉=神御自身=イエシュア御自身だと書いてある。」
(サンプル2)
「私たちが聖書を読む時、自分に引き寄せず、自分が「神に近付いて」、『神様の視点』で聖書を読む、という時に、ヘブル語からの理解が必要不可欠になってくるのだと思います。」(強調は筆者)
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サンプル1は、「クリスチャン(→筆者の言葉を借りると‟異邦人イエシュア信者”)もまた、トラー(=モーセ律法)を遵守しなければならない」というヘブル的ルーツ運動(HRM)の教えに強く影響された方の日本語サイトからの引用で、サンプル2は、「ヘブル的視点」での聖書の読み方を推進しておられる方の日本語サイトからの直接引用です。
1のヘブル的ルーツ運動(HRM)と2の「ヘブル的視点」は別々のものですが、お二人の見解の共通項は、「ヘブライ語のオリジナル原語で書かれた、オリジナルの神の言葉の真実だけを土台に」(1の方)、「ヘブル語からの理解が必要不可欠」(2の方)といった具合に、「正しい聖書の読みにはヘブライ語原語が必須である」と考えている点ではないかと思います。
また両者にはもう一つ共通項があって、それは「最も熱心な実証主義者たちを当惑させてしまうほどの、絶対的客観性を前提している」(クラーク・カールトン師)点です。
「アインシュタインは観察者はどんな科学的観察においても、その観察結果の一部分であることを立証した。純粋な客観性というものはない。自然界の観察においてこれが真実だとするなら、ましてや聖書のテキストの解釈においてはどれほどいっそう真実であろうか。」(引用元)
読む者にその意味を何の疑問の余地もなく承認を強いる、多様な解釈があり得ないむき出しにされたテキスト。上記のお二人の真摯な姿勢には共感しますが、残念ながら、両者共に、解釈と認識に関する非常にナイーブな前提を持っており、さらに自らのその前提に無自覚且つ検証を経ることなくそれらを自明のものとみなしておられます。
サンプル1の前提
人は、「オリジナルの神の言葉の真実だけを土台に」「書いてある意図通り」「曲げずに」学ぶことができる。
↓
この前提から導き出される結論
「トラー=言葉=神ご自身=イエシュア御自身だと書いてある」ことが分かるようになる。
サンプル2の前提
人は、「自分に引き寄せず」、「『神様の視点』で聖書を読む」ことができる。
↓
この前提から導き出される結論
「ヘブル語からの理解が必要不可欠になってくる。」
尚、ヘブル的ルーツ運動(HRM)及び、「ヘブル的視点」推進グループ内にもそれぞれ多様性とグラデーションがあると思いますので**、もちろん上記に挙げた二つのサンプルが両運動の性質をそのまま反映しているわけではないと思います。
しかしながら、両サンプル共、検証されていない前提から導き出される諸結論が、個人や諸団体をあらぬ方向に暴走させていく危険性があることを私たちに如実に物語っているのではないかと思います。形は違えど、自分にもいつ起こらないとも限りません。一つの警告として心に留めたく思います。