巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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教会政治とジェンダー論ーー女性教職を認めるべきか?(ウェイン・グルーデム著『組織神学』第47章)後篇【さまざまな反論に対する応答】

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困ったなぁ~。どうしよう。

 

目次

 

前篇からの続きです。

 

Wayne Grudem, Systematic Theology, ch.47. Church Government, D. Should Women be Church Officers?, p.942-944.(全訳)

 

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はじめに

 

ここで提示している見解に対し、数多くの反論が出されていますが、本稿の中で取り扱うことができるのはその中のごく一部になります。*1

 

反論の実例

 

①「ジェンダーではなく賜物によってミニストリーは決定されるべきです。」

 

反論

ミニストリーはジェンダーではなく賜物によって決定されるべきです。

 

回答

しかしながら霊的な賜物は、聖書の中で与えられているガイドライン内で用いられなければなりません。霊的賜物に権限を与え強めるその同じ聖霊が、聖書に霊感を与えています。そして神は私たちが主の御言葉に不従順である中で霊的賜物を用いることを望んでおられないのです。

 

②「神様が女性である私を真実に牧師に召してくださいました。」

 

反論

もしも神様が真実に(genuinely)、ある女性を牧師に召してくださっているのなら、私たちが、どうしてその尊い召命に抗言することなどできましょうか。

回答

この反論に対する応答は、①と似通っています。つまり、「これは主からの召命です」という個人的主張は常にその主張を聖書のみことばに服従させることにより試験されなければならないということです。

 

もしも神の御心というのが、「男性だけが牧会職における主要な教え及び統治責務を担うことである」というのを聖書が教えているのだとしたら、そこに含意されているのはすなわち、聖書はまた、「神が女性たちを牧師には召しておられない」と教えているということです。

 

しかしここで付け加えておかねばならないのは、しばし、「自分は牧会職に召されている」と判断した女性は実際、本当にフルタイムのミニストリー奉仕者への召しを受けているかもしれないということです。但し、彼女が召されたその「フルタイム職」は教会での牧師/長老職ではないわけです。

 

実際、地域教会内外において、牧師や長老としての奉仕以外にも、フルタイムでの奉仕の機会は数多くあります。例えば、カウンセリングをする教会スタッフ、各種女性ミニストリー、キリスト教教育、子供ミニストリー、賛美ミニストリー、キャンパスミニストリー、伝道ミニストリー、貧困者に対する愛のミニストリー、教会全体を統治する長老の役割を含まない行政面での責務等。*2

 

このリストをまだまだ続けることができますが、要は、聖書自体が制限していない場所に私たちが勝手に制限枠を設けるべきではなく、牧師/長老職以外のすべての領域において、女性にも男性にも、完全にして自由な参加を許可し、また奨励すべきであるということです。

 

③「新約聖書はしもべとしてのリーダーシップを重んじています。」

 

反論

新約聖書は、しもべとしてのリーダーシップを強調しています。それゆえに、私たちは権威についてあまり神経質になるべきではありません。なぜならそういった懸念はクリスチャンというよりはむしろ異教的な性質のものだからです。

回答

この反論は、「しもべ性」と「権威」の間に虚偽の区別を作っています。イエスご自身がしもべとしてのリーダーの模範であることは疑いの余地なきことです。しかしそのイエスはまた権威も持っておられます。--それも偉大なる権威を、です!イエスは私たちの人生の主であり、教会の主であられます。

 

アナロジーにより、長老たちはしもべとしてのリーダーシップの模範に倣う必要があります(1ペテロ5:1-5参)が、そうだからといって、彼ら長老たちが権威を持ち統治するということをないがしろにすべきだということにはなりません。聖書自身がこの責任を彼らに委託しているのですから(1テモテ5:17;ヘブル13:17;1ペテロ5:5)。*3

 

④「当時の奴隷制と今日の女性牧師反対論にはパラレル関係があります。」

 

反論

「奴隷制が悪であるということを教会はようやく認識するようになりました。それと同様、今日の教会は男性リーダーシップが悪であり、廃棄すべき時代遅れの文化的伝統であるということを認めるべきです。」

回答

しかしこの反論は、奴隷制という、神が創造の際には決してお立てにならなかった「一時的な文化的制度」と、神が創造時にお立てになった「結婚における男性/女性の役割における相違の存在」(+教会内での両者の関係性も含意)との間の違いを認識することができずにいます。

 

奴隷制破棄の種(seeds)は新約聖書の中に蒔かれていますが(ピレ16;エペ6:9;コロ4:1;1テモテ6:1-2)、それとは反対に、結婚制破棄の種、もしくは創造における男女の相違の破棄のための種は聖書の中のどこにも蒔かれていません。

 

さらに、この反論にはどんでん返しがあります。というのも、19世紀におけるクリスチャンの「奴隷制擁護者」と、今日の「福音主義フェミニスト」の採るスタンスの間にこそむしろ、より親密なるパラレル関係が見い出されるからです。

 

つまり、前者も後者も、それぞれの時代における現代社会の中に存在している圧倒的に強大な〔政治的・社会的〕重圧に自らを迎合させることを正当化すべく、聖書を用いているという点で互いに似通っているのです。(当時の重圧⇒奴隷制擁護、今日の重圧⇒女性牧師擁護)

 

⑤「プリスキラは夫アクラと共に、アポロに神の道を説明していました。」

 

反論

「プリスキラとアクラは共にアポロに語り、『神の道をもっと正確に彼に説明』(使18:26)しました。」

回答

これはその通りであり、インフォーマルなセッティングで男女が共に聖書に関するディスカッションをし、男女共に、互いの聖書理解を助け合うべく相互に重要な役割を果たすことが新約聖書の中で是認されていることを示す良い実例だと思います。そしてこういった実例は、御言葉によって禁じられていない諸活動を私たちが勝手に禁止することのないよう私たちに注意を促します。

 

にもかかわらず、これは、教会において公的に認められた統治及び教えの役割が男性たちに制限されているという原則を覆してはいません。そしてプリスキラはこの原則に反するようなことは何もしていませんでした。

 

⑥「会衆制の諸教会の中で女性に投票権を与えながら、彼女たちの長老職は禁じているというのは矛盾していませんか?」

 

回答

しかし教会全体としての権威というのは、教会内にいる特定の個々人に与えられている権威と同じではありません。「コングリゲ―ション(集会)全体が権威を有している」という時、それが意味しているのは、集会内の各男性、各女性が、集会に対して発言し集会のために行動する権威を有しているという事ではありません。それゆえ、個人の人格性の一部であるところのジェンダーは、公同的次元における会衆決定の上で著しく重要視されるわけではありません。

 

別の言い方をしますと、この項で私たちが問うているのは、教会内で女性たちは教役者になることができるのか、そしてとりわけ、彼女たちは教会内で長老職に就くことができるのかという事項に限られています。長老たちが会衆によって選出される会衆制を採用している教会においては、長老たちが一種の代理的権威を有していることが誰の目にも明らかです。

 

そして集会のその他のメンバーたち自身がまず彼ら長老たちに票を入れたにも拘らず、他のメンバーの人々は〔長老たちが有しているような〕こういった代理的権威を持っていません。そしてこれは役職者が選出されるあらゆる政府体系にも当てはまります。

 

大統領や市長が選出されたなら、その人は、自分を選出した人々の上に代理的権威を有し、その権威は、投票したどんな個々人の権威よりも強大なものです。*4

 

また同様に大切な点は、神は男性と同様女性たちにも多くの洞察と知恵を授けてくださっており、それゆえ、女性たちの持っている知恵を引き出そうとせずそれらを軽んじる教会指導者たちは愚かに振る舞っているということです。

 

ですから教会全体に影響を及ぼすような決定に関わっている長老や男性指導者たちは、その決定過程を助けるものとして、教会の他のメンバーの知恵や洞察、特に、男性と同様女性たちの知恵や洞察にもよく耳を傾ける姿勢が必要なのではないかと思います。

 

ー終わりー

 

その他の反論

⑦「1テモテ2:12の翻訳が間違っています。」

 

回答

 

⑧「1テモテ2:12の動詞アウセンテオー(支配する)は比較的まれなギリシャ語であり、意味を把握するのが非常に困難です。」

 

回答

 

⑨「1テモテ2:11-15の箇所は、新約聖書が旧約聖書を誤って解釈した結果生じたものです。」

 

回答

 

⑩「1テモテ2:12の『許しません』は現在形動詞であり、一時的な命令であるに過ぎません。」

 

回答

 

⑪「1テモテ2:12-15も、創造に関する創世記の記述も、文化的に相対的なもので、今日性を持ちません。」

 

回答

 

⑫「新約記者たちは、次第に完成に近づく対等主義的完全な形での女性リーダーシップに向けて『軌道』を移行中でした。」

 

回答

 

⑬「ローマ16:2の女性執事フィベは『指導者』であり『支配者』であって、使徒パウロの上に立つ人でした。」

 

回答

 

⑭「イエスは当時の家父長制文化が女性たちに課していた社会通念をひっくり返しました。」

 

回答

 

⑮「万人祭司説というのは、聖書の真理です。ですから、女性も牧師になることができるのです。」

 

回答

 

⑯「『男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリストにあって一つだからです』(ガラ3:28)というパウロの言明によって、ジェンダーの壁が取り除かれ、それゆえに女性教職の門戸は開かれてしかるべきなのです。」

 

回答

 

⑰「男性牧師の‟権威の下”でなら、女性は会衆に聖書を教えることができるのではないでしょうか。」

 

回答

 

⑱「新約聖書によれば、女性も預言することができます。ですから、彼女たちも神の言葉を教え、牧師になることができるのではないでしょうか。」

 

回答

 

ー終わりー

 

関連記事:

ルーテル教会

聖公会

正教会

カトリック教会

*1:さらなる議論の詳細は、Recovering Biblical Manhood and Womanhood, 特にpp.60-92を参照。

*2:詳細はRecovering Biblical Manhood and Womanhood, pp.54-59.

*3:長老の権威についての詳説は、ウェイン・グルーデム著『組織神学』pp.915-16を参照。

*4:ウェイン・グルーデム著『組織神学』pp.921-22を参照。