巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

イスラーム伝道、女性、ジェンダー論ーー新世代の中東女性たちへの愛の働きかけとキリスト教弁証

Related image

出典 

 

目次

 

楽しい語らい

 

先日、中東A国出身で北ヨーロッパの大学院で学んでいる若いスンニ派のヒジャーブ女性たちが5人ほどわが家を訪問してくださいました。(その中の一人が「隠れキリシタン」だった関係でつながりができたのです。)そして紅茶やお菓子をいただきながら、同性同士わいわい楽しく語り合い、活発に意見交換をしました。

 

彼女たちの専門は女性学で、それぞれ政治学やジャーナリズム等、社会科学系の専攻分野からイスラーム諸国の女性の人権問題に取り組んでおり、また、欧州に散らばる難民の女性や子ども達の法的・精神的ケアに奔走するアクティブな活動家でもあります。

 

その一方、宗教面では彼女たちのほとんどは保守で、イスラームの教えや規範に則った伝統的倫理・世界観を持っており、それゆえに、この「保守」と「進歩」の微妙なミックスが彼女たちの言説をユニークかつ個性的なものにしている感がしました。

 

そしてついでに言えば、ある面、この「保守」と「進歩」の微妙なミックスはクリスチャンである自分の中にも存在しており、それが故でしょうか、彼女たちとものすごく気が合い、話が尽きませんでした。そしてこの感覚は、以前、正統派ユダヤ教徒の女性とお交わりした際にも強く感じました。

 

ジェンダー論における相補主義(complementarianism)と対等主義(egalitarianism)という二つの大きな流れ*は、キリスト教だけでなく、ユダヤ教やイスラム教の中にも異種の形態で少なからず存在するため、私たちは前者の立場にたつ女性として、なんとはなしに互いに親近感および安心感を覚えるのかもしれません。言葉にするのはむずかしいですが、そんな気がします。

 

保守的なヒジャーブ女性たちが私の方に気さくに近づいてきてくれるのも、底辺に流れるそういった共通項ゆえなのかもしれません。(但し、後述しますように、存在論における男女の本質的平等を積極的に証言しているのは三位一体の神であり、キリスト教の神であるというのがイスラム教の方々に対する私の論点です。)

 

存在論から三位一体論へ

 

また、女性の人権や男女平等という彼女たちの関心分野に共にタックルし、共に考えていく中で、いつしか話題が存在論(ontology, :علم الوجود)へと発展していくことも少なくありません。

 

そしてここまでくると、ついにキリスト教弁証ーーその中でも特にイスラム教徒にとって最大の難関である三位一体論の弁証ーーへの道が開かれます。

 

存在・本質における等価値性(ontological equality)と、役割・機能における相違(economical difference)は、三位一体論の中で、キリスト教会が正統教義として歴史的に認めてきたものですが*、私たちはこの真理を、聖書的な男女観というアナロジーからイスラム教徒に解説することが可能です。

 

そして、この弁証は二方向において真理を証します。一方において、男性と女性の ‟平等” は、存在・本質における等価値性(ontological equality)を保証するキリスト教においてその真の成就をみるということを彼女たちに弁証することができます。

 

また、役割・機能における相違(economical difference)は決して存在論的不平等性を意味するものではないということ*を御父・御子の関係性の中から証し、それゆえに、なぜキリスト教の神は、一つではなく三位格を持っているのかということを説明することで彼女たちの理解を助けることができます。

 

また、多少、キリスト教の教義に詳しい方々には、三位一体論における「存在の等価値性/機能の相違」という正統教義が、古代異端のアリウス的従属主義(Subordinationism)*とは別物であるということを補足しておくとよいかもしれません。

 

おわりにーー寄り添い、一緒に歩いていく

 

チャールズ・テイラーの『世俗の時代』の中で論じられているように、私たちは現在、信仰の競合性(contestability of competing beliefs)という釜の中で交差圧力(cross-pressure)にさらされていますが、こういった揺るがしとチャレンジを受けているのは保守的なクリスチャンの若者たちだけでなく、保守的なイスラム教徒の若者たちとて決してその対象外ではないということに気づかされます。

 

「最初にユダヤ教が来て、その次に、キリスト教が来た。そして両者を完成する形で最後の宗教であるイスラム教が到来した」という従来のイスラム教のストーリーラインも、グローバル化された多元社会の中で交差圧力を受け、揺さぶりをかけられています。

 

ほんの10-15年前まではA国の保守的なヒジャーブ女性がキリスト教徒の家を訪問し、そこでざっくばらんに信仰に関するディスカッションをするというようなことはほぼあり得ない話だったと思います。

 

これは、神の摂理の下、彼女たちの心が、新しい考えや自分とは異なる信仰のあり方について以前よりもずっと柔軟かつオープンになってきているということの何よりの証拠ではないかと思います。つまり、今、新たな宣教の門戸が開かれつつあるということです。

 

最後になりますが、イスラーム世界の女性たちとの関わりの中で私が大切にしているのは、競合や対戦ではなく、「相手に寄り添う」という心の姿勢や態度です。「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」(1コリ9:19)というパウロに倣い、相手の立場や見方や世界を同情心をもって〈内側〉から一緒に見てみるという寄り添いと気配りを大切にしたいです。

 

世界観や信仰の揺さぶりというのは誰にとってもチャレンジの大きいものです。不安や心もとない感情というものも、人間なら誰しも持つものだと思います。そんな時、私なら、不安がっている自分をさらにコーナーに追い詰めるような人ではなく、やさしく手を取ってゆっくりゆっくり自分と一緒に歩いてくれる人を近くに求めます。

 

そして私の祈りは、主の恵みの内で、自分もまた真理を探究する誰かにとって、そのような良き旅仲間とされることです。読んでくださってありがとうございました。