巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「宗教は嫌いだけど、イエスは好き。」ーー〈宗教〉vs〈イエス〉という二分法と現代マルキオン主義グノーシス思想についての考察

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目次

 

大ヒットのビデオ「なぜ宗教は嫌いだけどイエスは好きなのか」

 

著名なカトリックのバロン司祭が、3000万以上のアクセス数のあるYoutubeビデオWhy I Hate Religion, But Love Jesus(「なぜ宗教は嫌いだけどイエスは好きなのか」)の内容について鋭い分析をしておられます。

 

 

このビデオの中で、ジェファーソンという若い男性が、「イエス」と「宗教」とは全く別々の実体であり、イエスは宗教を廃棄するために来られたという旨をラップ風に語っています。

 

Religionという言葉はいつ頃からキリスト教会の中で敵対視されるようになったのか?

 

みなさんは、「キリスト教は宗教(religion)ではなく、神様との生きた関係です」等のフレーズを聞いたことがありますか?福音主義クリスチャンの方々なら必ず一回はどこかで耳にされたのではないかと思います。私もたくさん聞いてきましたし、他の人にもそのように語ってきたと思います。

 

しかしながら、グレシャム・メイチェンやゲルハルダス・ヴォス等、20世紀前半のキリスト教著述家たちの文章を翻訳する中で私ははたと立ち止まりました。

 

というのも、彼らはreligionという語をキリスト教のあり方を指す用語として、肯定的/中立的な意味合いで捉え用いていることに気づいたからです。つまり、彼らの中ではキリスト教は紛れもなくreligionであり、それも実にすばらしいreligionなのです。

 

そこでさらに18-19世紀にまで溯ってこの語の使われ方を調べてみました。(例:18世紀のウィリアム・ローの著述等)そうすると、やはり18世紀にもreligionは肯定的/中立的な意味合いでキリスト教著述の中に登場してきていることが分かりました。

 

さらに16世紀、宗教改革者ジャン・カルヴァンは『キリスト教綱要』を記しましたが、タイトルはラテン語でInstitutio Christianae Religionis(英:Institutes of the Christian Religion)であり、ラテン語で「宗教」を表すreligioが用いられています。

 

それだけではありません。なんと、新約聖書自体が、キリスト教のことをはばからずに「宗教」とみなしていることに気づいたのです。

 

ヤコブ1:27

新改訳

27 父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。 

欽定訳

27 Pure religion and undefiled before God and the Father is this, To visit the fatherless and widows in their affliction, and to keep himself unspotted from the world.

ギリシャ語原典

27 θρησκεία καθαρὰ καὶ ἀμίαντος παρὰ τῷ Θεῷ καὶ πατρὶ αὕτη ἐστίν, ἐπισκέπτεσθαι ὀρφανοὺς καὶ χήρας ἐν τῇ θλίψει αὐτῶν, ἄσπιλον ἑαυτὸν τηρεῖν ἀπὸ τοῦ κόσμου.  

ラテン語(Vulgate

27 religio munda et inmaculata apud Deum et Patrem haec est visitare pupillos et viduas in tribulatione eorum inmaculatum se custodire ab hoc saeculo.

 

以上のことから、θρησκεία、religio、religion、宗教という語は、新約聖書の中においても、それから20世紀前半までのキリスト教史の中においても、冒頭のビデオの若者および「キリスト教は宗教ではなく神様との生きた関係」等のフレーズで含意されているような否定的な意味合いは無かったのではないかということが推測され得ると思います。

 

それではなぜ、「宗教」という語は、現代キリスト教界の中で否定的な意味合いを持つようになっていったのでしょうか。(いろいろ調べてみましたが、「米国大覚醒運動の時期を境に、意味における変遷があった」等の見解はあるものの、これといって決定的な証拠を見い出すことはできませんでした。)

 

バロン司祭の分析

 

下のYoutubeの中で、バロン司祭は、ジェファーソンのビデオを分析しています。

 

 

この中でバロン師は、〈宗教〉を〈イエス〉と対立化させる発想は、その源をルターの教説に辿ることができると述べています。つまり、この文脈における〈宗教〉の中に含意されているのは、(恵みに相反するところの)個々の儀式、サクラメント、制度、教会であり、これらはキリスト者の「自由」のアンチテーゼとしての束縛、不自由さを表すものとして捉えられる傾向があるということです。

 

しかしながら、バロン師によると、こういった二項対立的発想は、キリストの『受肉』および、神秘的『みからだ』としての教会論的理解の欠落した現代エヴァンジェリカル界の偏った見方を反映しているとされています。

 

そして、これに、アメリカ的な個人主義に裏打ちされた最近の霊性志向(「教会とかは関係ない。大切なのは私とジーザスの関係。」)が加わり、冒頭のようなビデオの大ヒット現象が生み出されたと師は分析しています。

 

現代マルキオン主義グノーシス思想のエヴァンジェリカル界台頭

 

 

さらにバロン師は分析を続け次のように言っています。

 

「ニューエイジの人々は、『宗教無しの霊性』を叫んでいます。そして福音主義クリスチャンの多くは『宗教無しのイエス』を叫んでいます。しかし、これらは両者共に、最終的に抽象化(abstraction)されたイエスに行き着いてしまいます。リアルなイエスというのは、受肉されたことばであり、それは非歴史化され、個別をはく奪されたところのいわゆる‟純粋イエス”などではないのです。」

 

そしてバロン師は、冒頭の青年のビデオの背後に、古代異端のマルキオン主義(Crypto-Marcionism; グノーシス思想)の萌芽を見い出し、次のように述べています。

 

「2世紀の護教家エイレナイオスは、マルキオンのグノーシス主義と徹底的に戦いました。非民族化(de-racinated)、非ユダヤ化、非歴史化された『純粋キリスト』というマルキオン主義の純粋抽象化に対し、エイレナイオスは宗教という個別、そして歴史の中におけるイエスを力強く証言したのです。」

 

私はこの部分を聞いた時、今まで頭の中でバラバラに散在していたいくつかの課題が実は互いに連関しているのかもしれないということに気づかされ、「あー、そうかぁ、、」と思わずうなってしまいました。

 

なぜ、形や名称を変えつつも、私たちのプロテスタント界には、常に〈律法主義〉vs〈アンチノミアニズム(無律法主義)〉の両極端が入れ代わり立ち代わり姿を表してくるのでしょうか?

 

なぜハイパーグレース(安価な恵み)のメガチャーチ現象の反動から、ヘブル的ルーツ運動(HRM)というユダヤ主義的律法主義が台頭してくるのでしょうか?なぜ一つの極端からもう一つの極端へと振り回されてしまうのでしょうか?、、、

 

グノーシス主義ともユダヤ主義とも戦い抜いた教会教父たちの軌跡及び、受肉した神秘的「みからだ」としての教会の包括的理解ーー。おそらく今後の私の課題はこういった点にあるのかもしれません。

 

宗教改革の教理に対するクリティカルな検証は自分のアイデンティティーに関わっている分、困難を伴う作業です。ですが、この先、どこに導かれようとも、何を得、何を喪失しようとも、私は自分の信じている内容が本当に真であるのか、それを知りたいと切望しています。主よ、助けてください。