巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

“Faith” と “Faithfulness” (D・A・カーソン師)【「イエス・キリストへの信仰」/目的格的属格説】

f:id:Kinuko:20180114011531p:plain

D・A・カーソン(トリニティー神学校、新約学)

 

 

「信仰と従順は相反していません。両者はまさに互いに属し合っています。実際、多くの場合において、‘faith’という語自体、‘faithfulness’と適切に訳すことが可能であり、この点を主張しているわけです。」

N・T・ライト「聖パウロが実際に言っていたこと(What Saint Paul Really Said)」, p.160

 

ギリシャ語のピスティスは、英語では "faith"と "faithfulness" の両方を意味し得ます。まず、この事実に関しては誰も異論がありません。(後者の事例に関してはローマ3:3を参照*1

 

しかしながら、N・T・ライトは、以下に述べる二つの措置を講じているわけですが、それは、「聖書がいかにして整合されているかに関する彼のより広汎な理解の中に、それらがどのように組み入れられているか」を理解しない限り、適切に判断することができないと思います。

 

まず第一に、何か所かで、“faith in Jesus Christ” や “faith in Christ” 等の英訳がされてあり(ローマ3:22、26;ガラ2:16;ガラ3:22;ピリピ3:9)、そういった箇所では、キリストが私たちの信仰の対象となっているわけですが、そこにおける全ての事例において、ライトは、この表現を、“faithfulness of Jesus Christ” もしくはそれに相当する意味を持っていると捉えています。

 

つまり、〔ライトの見解によると〕ここで聖書が言っているのは、主が忠実なる(faithful)イスラエル人であり、御父のみこころを為し、十字架に向かっていったというイエス・キリストの忠実性(faithfulness)にあるのであって、ユダヤ人や異邦人が、イエスご自身を信仰の対象としつつ行使するところの信仰(faith)ではないということです。

 

単なる文法の次元で言うなら、(ギリシャ語では、英語の “in” や  “of” に似たような前置詞を使いませんので)このギリシャ語表現は、確かにどちらの読み方をすることも可能です。

 

第二番目に、いくつかの事例において、ライトは、「パウロがクリスチャンたちの “faith” について語る際、彼が実際に言っているのは、クリスチャンたちの “faithfulness”(忠実、誠実、真実)の事であり、それは大体において、彼らの従順に相当している。」と考えています。

 

さて、彼のこういった措置を私たちはどのように捉えるべきでしょうか?

 

第一に、公明さを期す上で申し上げますが、ライトは「人間がキリストに信仰を置かなければならない」という事を否定しているわけではないということーーこれを認識することは大切でしょう。

 

そうではなく、ここで彼が主張しているのは、「幾つかの聖句の中において論点となっているのは、キリストに対する人間側の信仰ではなく、むしろ、人間の faithfulness、もしくはイエス・キリスト自身の faithfulness である」という事です。

 

それゆえライトの理解によれば、ローマ3:22は、「① “faith in Christ” もしくは ② “the faithfulness of Christ”(のいずれか)による神の義であって、それはいずれの場合にしても、すべての信じる人に与えられる」と言っているとされています。

 

二番目に、確かにイエスが天の御父に対し忠実かつ従順であるというテーマは、新約聖書の中でかなり強いものではありますが(特にヨハネの福音書とヘブル人への手紙。しかしピリピ2:5-11および共観福音書の中のゲッセマネの箇所なども参照されたし。)、このテーマが半ダースほどの “faith/faithfulness of Jesus Christ” の諸聖句の中に見い出されるかというと、それは全く明瞭ではありません。

 

率直に言って、この問題は込み入っています。こういった一連の諸聖句の文脈を公正に読んでいくと分かるのは、どの箇所であれ “to believe” という動詞が使われている所では、対象は常にイエスか福音かであるという事です。それゆえ、同族名詞 “faith” が、なにかそれ以外の意味合いで使われているという事を主張するには、とてつもなく強固な証拠が必要になってきます。

 

そしてライト自身は、「その証拠はとてつもなく強固だ」と考えているわけです。ーーとりわけ、彼が聖書の筋(storyline)を読むその方法が。

 

彼の理解によれば、救いのクライマックスというのは、ーー十字架に向かわれ、御父によって弁護された忠実なるイスラエル人としての機能を果たすべく、御子イエスを遣わすというーー神の「義」(だいたいにおいて神の「契約的忠実性 “covenant faithfulness”」と言っていいでしょう)にかかっており、それにより、ユダヤ人であれ異邦人であれ、イエスと合一している全ての人は、神の契約の民として構成される、ということです。

 

聖書神学におけるこういった理解に対する最も同情心に満ちた評価をするとすればーー私たちは皆、他者を評価するに当たり、慈愛の心を持ちたいと願わないでしょうか?ーー、ライトのこの理解は、「間違っている」というよりはむしろ「間違った場所に強調点を置いてしまっている」、そういった責めを負っていると言っていいかと思います。

 

「ある次元においてはキリストが十字架の上で罪、義、咎、責め、聖さといったことに対処している」という事をライトは一応認めています。しかし「契約に対する神の faithfulness」および「理想的イスラエル人としての(ご自身の役割に対する)キリストの従順な   faithfulness」という支配的なテーマに比べると、前述のそういった事柄は彼にとって比較的ささいなテーマなのです。

 

ダクラス・J・ムーの洞察に富んだ評価によると、ライトは、新約聖書が前面に出しているもの(foreground)を背後に置き(background)、逆に、新約が背後に置いているものを前面に出してしまっています。

 

さて三番目ですが、“faith” の代わりに “faithfulness” を見つけようというライトの強い趣向は、パウロ書簡の多くの箇所において、的が外れたものとなっています。

 

例えば、ローマ4章で描写されているアブラハムのことを考えてみてください。当時の多くのユダヤ資料は、アブラハムが神から数多くの偉大な賜物を授かったと主張しています。ーー例:アブラハムは多くの国々の父となった。神の友と呼ばれた。祈りが聞かれた等ーーなぜなら、まさしく彼が faithful であると認められていたからです。(シラ44:19-20、1マカベヤ2:52、Jub.19:8-9)。

 

それとは対照的に、パウロがローマ4:3の中で創世記15:6(「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」)を引用する際、使徒パウロは、神が不敬虔な者を義と認めてくださると理解しています(ローマ4:5)。

 

ユダヤの支配的理解の中では、神がアブラハムを義と認めてくださったことは完全に妥当なことでした。アブラハムはそう認められるに値する人物だと考えられていました。なぜなら、彼は “faithful” だったからです。

 

一方、パウロの理解の中では、神がアブラハムを義と認めてくださったことは、アブラハムの不敬虔さを無視したところの(in defiance of)行為でした。つまり、パウロにとって、罪びとの義認というのは、決定的に、十字架につけられしキリストにかかっているのです

 

こういった種類の数々の誤りが、パウロに関するN・T・ライトの読みの中に蓄積されていっているわけですが、この司教が現在、羊たちの群れをあらぬ方向に迷い込ませているのではないかと憂うばかりです。

 

ー終わりー

 

 

関連記事

*1:τί γάρ; εἰ ἠπίστησάν τινες, μὴ ἡ ἀπιστία αὐτῶν τὴν πίστιν τοῦ Θεοῦ καταργήσει;(ローマ3:3)