巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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パウロ書簡における"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"(ピスティス イエスー クリストゥー)の諸解釈ーー主語的属格にとるか、目的語的属格にとるかを巡って【パウロの信仰義認論の解釈】

 

目次

 

はじめに

 

今年1月に私は、トリニティー神学校新約学D・A・カーソン氏の「“Faith” と “Faithfulness”」という翻訳記事を掲載しました。カーソン氏は"πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ"(ピスティス イエスー クリストゥー)を伝統的プロテスタント改革派の立場から、目的語的属格にとっておられます。

 

しかしその後、このギリシャ語聖句を目的語的属格(faith in Christ)にとるか、主語的属格(faithfulness of Christ)にとるかの解釈で自分自身、かなり迷いが生じてくるようになり、そのため一旦、この翻訳記事を下書き状態に戻したことを4月にみなさんにお伝えしました。

 

 

あぁ困った!一体どちらが ‟伝統的” 解釈でどちらが ‟新” 解釈なのか分からなくなった。

 

パウロの "πίστις Ἰησοῦ Χριστοῦ" における" Ἰησοῦ Χριστοῦ" は、属格形で表現されており、文法的には、名詞クリストスの属格クリストゥーをピスティスの目的語と解すれば、"πίστις" の意味上の主語はキリスト者であり「キリストを信じる信仰」と訳出できます。

 

この場合、キリストは、主体ではなく対象です。 一方、属格クリストゥーを主語的に理解しますと、意味上の主語はキリストとなり「キリストの(持っている)信仰、信実」と訳すことが可能です。(参照

 

そして一般に、前者の目的語的解釈は、「伝統的な解釈」で、後者の主語的解釈はパウロ研究における「新視点 New perspective」とみなされていると思います。

 

しかしながら、この目的語解釈が元々、16世紀になって初めてマルティン・ルターのドイツ語訳によってもたらされたものであるとすると話は違ってきます(参照)。

 

この点について、東方正教会の方にも訊いてみたのですが、正教の視点ではむしろ、前者の目的語的解釈の方こそ16世紀に登場した‟新視点”で、パウロ研究における「新視点」はどちらかというと‟伝統的視点”に近いと捉えているということを知り*1、さらにあれあれっと「???」の状態になっていきました。

 

つまり、プロテスタンティズムの〈内側〉からみると、目的語的解釈は ‟伝統的”解釈で、主語的解釈は ‟新” 解釈。でも、プロテスタンティズムの〈外側〉からみると、宗教改革以来のいわゆる ‟伝統的” 解釈の方がむしろ ‟新” 解釈。うーん、事態はあべこべになっているということなのでしょうか?

 

しかもこの聖句は、文法的には主語的属格にも、目的語属格どちらにもとれるので(参照)、それぞれの文脈から判断していかねばなりません。

 

それで、総合的に考えますと、ルーテル教会の橋本昭夫師のおっしゃるように、やはり「どちら〔の解釈〕をとるかは、結局はその解釈者の神学によるということになる。」ということになるのかなぁと思います。(『福音主義神学』46号、2015年)

 

マイケル・バード氏とプレストン・M・スプリンクル氏がFaith of Jesus Christ, The: Exegetical, Biblical, and Theological Studies(2010年)という著書の中で、両陣営の論文を編集しておられるということを聞いたので、近い将来、ぜひ読んでみたいと思っています。また、このブログ上でも、両陣営の論文を掲載し、みなさんとご一緒に考察していくことができたら幸いです。

*1:『オーソドックス・スタディー・バイブル』のガラテヤ書注釈より一部抜粋。 

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Orthodox Study Bible - commentary note on Galatians 2:16: 

Faith in Jesus Christ is grammatically parallel to the works of the law and and should be translated “the faith of Jesus Christ.”  The faith of Christ is the gospel.  As the source of works is the law, so the source of faith is Christ.  It is the faith of Christ—His beliefs, His trust, His obedience—that justifies us, not our faith as such.  Christ’s faith is seen in His entire life on earth, not in just a few of His crucial works.”  

The commentary note for Galatians 2:17: 

By Christ should be “in Christ.”  Justification is not merely legal but actual—effected by our real, personal union with Christ in His glorified human nature.  That we could be found sinners shows this union never takes away our free will, and explains how some defected to Judaism.”  [Bold and italics in original.]