巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

賛美フラ、宣教と文脈化、現代語訳、キリストと文化ーー東方正教会教師との対話を通して学んだこと

f:id:Kinuko:20180613100816j:plain

主よ。あなたの耳を傾けて私に答えてください。私は悩み、そして貧しいのです。詩篇86:1

 

目次

 

揺らぐ確信と悩み

 

先日、自分の尊敬している福音派の牧師さんが「ゴスペルフラ」という礼拝形態を是認・称賛しておられることを知り、ショックを受けた旨を記事の中でみなさんにお話しました。

 

私にとってこの牧師さんはいわば日本の福音派の「良心」のような存在であったために、余計に衝撃が大きく、「ハワイの女神に捧げられていた異教ダンスを‟聖別”し作られた賛美フラというあり方はシンクレティズムであり、キリスト教の礼拝には相いれない礼拝形態である」という自分の見解に対し懐疑心が生じてきました。でもやはり「何かがおかしい」という思いはどうしても消えず、悩みました。

 

そこでついに意を決して、東方正教会の神学者であるロバート・アラカキ師にこの問題について直接、ご意見を訊いてみることにしました。私が師に訊きたかったのは、賛美フラという一具体例の是非だけでなく、「宣教と文脈化」という大きなテーマに関し、東方正教会はどのような考え/姿勢を持っているかということでした。

 

そうしましたら、アラカキ師から丁寧なご回答をいただき、そこから思いがけず、有益な対話が生まれました。この記事では、実り多きその対話から私が学んだことをみなさんにお分かち合いできたらと思います。

 

ゴスペルフラに対する正教の視点

 

アラカキ師は、ハワイ生まれの米国人であり、元々福音派の出身(ゴードン・コーンウェル神学校卒)でもあるため、ハワイ原産「ゴスペルフラ」というエヴァンジェリカル現象についてもよくご存知でした。(参照

 

その上で、彼は、礼拝の中におけるフラ使用に関する正教の視点は、「一言でいうと、ゴスペルフラは正教会内には存在しないし、今後も存在し得ない。It's not going to happen.」ということでした。

 

「正教会の日曜礼拝は、5世紀のヨハネ・クリュソストモスのLiturgyに倣っており、礼拝に関し、正教の祭司たちが新企画を導入する余地はほとんどありません。」

 

宣教と文脈化(contextualization)ーー二つの極端を避ける

  

「しかし」と師は続けます。「私はある程度におけるliturgy(典礼)の文脈化には賛成しています。」

 

アラカキ師によると、キリスト教の福音の文脈化に関し、二つの極端が存在するそうです。一つ目の極端は、「行き過ぎた保守主義(Extreme conservatism)」といわれるもので、これは、例えば、一般人が理解できないような高尚文語体を使った礼拝伝統の形態に固守するというあり方に表出してきています。

 

そうした上で、アラカキ師は内輪びいきせず、「これは、ロシア正教および日本の正教会で起こっています」とはっきり仰っていました。

 

そしてニコライ堂で使われている日本語が明治期の高尚文語体であることに触れた上で、「典礼の中で歌われ、言及されている内容を一般の人々がもはや理解できなくなる時、キリストに対する人々の信仰は弱体化され、あるいは阻まれていきます。」と指摘しておられました。

 

そしてもう一つの極端は、「シンクレティズム(異教との習合)」であり、このカテゴリーに該当するのが、現代プロテスタンティズムの中で普及している「ゴスペルフラ」です。

 

そうした上で、アラカキ師は、これら二つの極端に陥らないためにも、私たちは9世紀の宣教師コンビである聖キリルおよびメソディウスの宣教活動から学ぶことができるのではないでしょうかと提案しておられました。

 

キリルとメソディウスは人々が理解できるよう、聖書および典礼をスラブ語に翻訳しました。ここに宣教における文脈化があります。しかし、(文脈化には積極的でありながらも)「彼らは典礼の中に、異教的儀式を組み入れることからははっきりと一線を引いていました。」

 

教区生活における文脈化

 

また、教区生活においてもアラカキ師は文脈化に賛同しているとのことでした。現在、彼はハワイにあるギリシャ正教会の教区に通っているそうですが、主日礼拝以外の場所で、ギリシャ料理、ギリシャ舞踊、ギリシャ語が結構促進されている状況に直面することがあり、「うちの教区はなんとギリシャ的であることか」と戸惑いを覚えることがあるそうです。

 

驚いたのが、その教区では、ギリシャ共和国独立記念日のお祝いもなされるそうです!(絶句。)なぜハワイの教会でギリシャ共和国独立記念日が祝われるの!!?そこに一体全体、何のつながりがあるのでしょう。(特にギリシャ系移民以外の、例えばフィリピン系やポリネシア系ハワイ人の正教区民にとっては、東欧の一小国の独立記念など全く無関係な出来事でしょう。)

 

それで、ハワイ育ちのアラカキさんはそういうギリシャギリシャした教区の様子にいまいち馴染めない/アットホームな気持ちになれない(not quite feel at home)ものを感じており、「将来的に、もっと地元ハワイのローカル文化志向のある教区が誕生する日を待ち望んでいます」とのことでした。同感です。

 

国家と‟国教”と国語

 

さらに言うと、アラカキ師のこういった視点は、正教の総本山であるギリシャ共和国内の正教コンテクストからはなかなか出てこない発想だと思います。

 

というのも、ここ総本山では国家と‟国教”と国語が一体化され過ぎていて、その中に生きる人々の宗教観/国家観/言語観も一般にそこに強く規定されているため、「教会で国家の独立記念日を祝うってちょっと変じゃない?」という素朴な疑問が出にくい環境ががっしり国民精神に練り込まれている感があるからです。

 

話は少し脱線しますが、ギリシャのキリスト教界には日本や米国でいう「リベラル左派」的存在がほとんどなく、「リベラル左派」的スタンスを持つギリシャ人(正教徒)は、その活動拠点をむしろKKE(ギリシャ共産党、Κομμουνιστικό Κόμμα Ελλάδας)のような無神論的コミュニズムに置いているような気がします。

 

国立アテネ大学内でのKKE関係の若者たちの宣伝活動の活発さにも驚きました。こういった現象も、国家と‟国教”の分離がいまいちあいまいな総本山ならではのユニークな現象(=ひずみ)なのではないかと思います。

 

おわりにーー主は時に適って助け人を送ってくださる

 

そういう訳で、賛美フラに対する疑問から、思いがけず正教会のアラカキ師との対話の機会が与えられ、本当に多くの示唆を受けることができました。

 

多元主義や解釈学的カオスの中にあって、羊は時におろおろと迷い、途方に暮れてしまいます。空を見上げると、向こうの方からは懐疑や諦念という重ぐるしい黒雲が流れてきています。

 

でも私が経験しているのは、空(から)の手をのばし、「主よ、助けたまえ」と祈る時、どこからか何らかの助けが来るということです。しかもそういった助けは、内からも外からも来ます。どこからも来ます。

 

神は広大な方ですから、世界の果てからも助け人を起こし、私たちを助けることができるお方です。このようなお方を救い主として心に仰ぎ見ることのできる幸いを想い、感謝します。