巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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子どもの目から見たヘブル的ルーツ運動(HRM):脱会者家庭の子、ジェッセ君の証し

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出典

 

目次

 

Hebrew Roots Movement and Children – Testimony (抄訳)

 

はじめに

 

ジェッセ君が9歳の時、両親が、既存キリスト教会を離れ、ヘブル的ルーツ運動(HRM)に関わり始めました。その後、14歳の時に両親がHRMを脱会するまでの5年間、彼はトラー遵守の宗教/家庭教育を受け、育ちました。

 

下は、18歳になったジェッセ君が過去を振り返りつつ、子どもの目にHRMがどのように映っていたのかを正直に綴ったものです。

 

証し

 

今日、クリスチャンは、「自分とは異なる信仰にもっと寛容になるべきです」という教えを受けています。しかし、一見、わずかな教理的違いのように見えるものが自分たちにもたらし得る有害さについて、私たちは無自覚である場合があると思います。

 

実際、人は罪の束縛だけでなく、自分自身の信じる信条に縛られている時があります。またしばしば見過ごしにされるのが、オールタナティブな信仰や視点というのがどれほど子ども達に影響を及ぼし得るかということです。

 

これらは、子ども達がどのように神のことを捉え、自分たちのことを捉え、世界のことを捉えるのかに影響を与えています。この証しを通して、ヘブル的ルーツ運動の持つ危険性に誰かが気づいてくれたらと願いつつ、書いています。

 

ーーーーー

僕が9歳の時に、それは始まりました。両親は、「神様に喜ばれることをするなら、神様は家庭をもっと祝福してくださる」という考えを持っているように僕には感じられました。つまり、基本的な考えとして、両親は、「もしも私たちがモーセの律法を守り、すべての祭り(旧い契約の祝日)をきちんと守るのなら、神様は私たちのことを喜んでくださる」と信じているようでした。

 

家の中にこの変化が起こった時、母は僕に、「これは単なる遵守(じゅんしゅ)であって、新しい文化を家に取り入れたっていう感じなの」と説明してくれました。こうして僕たちの家族は、聖書の時代の生活や宗教がどのようなものであったのかについての新しい洞察を得始めました。

 

その後すぐに、僕たちの家族は学びグループ(HRM内では‟集会”と呼ばれていました。)に参加するようになりました。HRMが借りていたそこの集会所には、身体障碍者の子どもたちが乗馬することのできる施設がありました。それで、両親がトラー(聖書の最初の五書)を学ぶ間、僕はHRMの子ども達と一緒に何時間も馬に乗って遊んでいました。

 

それから数年経ちました。その間、僕たち家族はいくつかの異なるHRMグループの間を転々と移動していました。そして最終的に何人かの仲間たちと独自のグループを始めていました。その時、僕は少し大きくなっていたので、集会の中で、大人たちが言うことを聞いていました。

 

母はその時もまだイエス様のことを信じており、イエスが僕たちの罪のためになしてくださった犠牲のことも信じているようでした。そして母は僕もそういう風に信じていると思っていたらしいのですが、実際には、、そうではありませんでした。

 

僕はイエス様が自分の罪のために死に、蘇られたということを信じてはいたのですが、自分の周りにいた皆が持っていた律法への強烈な執着により、「救われるためには僕はどうしても613の律法すべてをしっかり守らなくてはいけないのだ」と思っていました。

 

でもそれは僕には不可解すぎました。「どうしてイエス様は僕のために死んでくださったのに、その同じイエス様が、僕がパーフェクトに生きることを期待しておられるのだろう?」

 

僕はそういうのは自分には無理だって分かっていました。一生懸命、パーフェクトな生き方をしようと頑張りました。でも頑張っても頑張ってもダメで、逆に、自分は真っ逆さまに地獄に落ちるだろうと思っていました。

 

苦しくて、何度か僕は、神様に泣き叫びました。そして神様に憐れみをこいました。でも自分の中の別の声は、「お前なんか憐れみを受けるに値しない。神はお前の祈りなんか聞いてくださらない」と言っていました。

 

14歳になった時、神様は僕の両親をヘブル的ルーツ運動から脱出させてくださり、僕たちはバプテスト教会に通い始めました。この時点で僕は、救われるためにモーセの律法を守る必要がないということを知りホッとしました。

 

しかしイエス様による救いというのが何であるかを本当に知ったのは、カンザス州で開かれた宣教旅行に参加した時でした。この宣教旅行は他の人々に福音を伝えるためのものでしたが、実際、これは自分の救いのために備えられたものだったと思います。

 

夕食の後、教会堂の中で自分の牧師が説教をしていました。講壇の前には十字架が架かっていました。説教を聞きながら、僕はこの十字架をじっと見つめていました。僕は当時まだ14歳に過ぎませんでした。

 

でも考えたのです。ああ、十字架というのはなんと剣のように見えることだろうと。そしていかにイエス様が十字架上で罪を打ち倒してくださったのかと。このイメージはシンプルなものでしたが、自分にとっては力強いものでした。そしてその場で神様は僕の心を変えてくださったのです。ついに僕は、自由になったのです!

 

ヘブル的ルーツ運動に関わった人の中には僕なんかよりもずっと最悪な経験をした人たちもいます。今になって過去のことを振り返ってみると、自分はもはや、さいなまされ、神の憐れみを受けるに値しない者だというあの当時の見方で自分のことをみてはいないことに気づきます。

 

この証しの文章を通し、誰かが、そしてその人の子どもたちが、ヘブル的ルーツ運動の束縛に入れられることから防がれることを祈ります。

 

2コリント3:15-18

15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。

16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。