巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

しかし物事には両面がある。ーー私がヘブル的ルーツ運動(HRM)には反対しつつも、そこで出されている問題提起(の一部)には共感/同情している理由

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出典

 

ヘブル的ルーツ運動(HRM)には多くの深刻な教理的問題がありますが、その中にいる人々の文章を読んでいてしばし感じるのが、「ピュアなもの、汚されていないもの、オリジナルなもの」に対する彼らの切実なる求めの心です。そしてこういった求め自体は、元来良いものであり、神より来るものなのではないかと思います。

 

先日、私の尊敬している牧師さんが、礼拝形態としての「ゴスペルフラ」のことを公に肯定/称賛しておられることを知り、ショックを受けました。それだけでなく、「異教文化を‟聖別する”というコンセプトの元に正当化されている賛美フラのあり方は正しいものではない」という自分の考え自体が結局のところfanaticalなものに過ぎないのではないかという懐疑心が生じてきました。

 

聖書を読むと、たしかに神様は「異教的なもの」を忌み嫌っておられるように思えます。また、ヘブル的ルーツ運動やエホバの証人が主張するように、12月25日という日付自体は確かに、キリスト教とは直接関係のないものであったのかもしれません。

 

ですから、「キリスト教の長い歴史の中で伝統化してきたさまざまな慣習の中に、もしかしたら ‟異教的なもの” が紛れ込んでいるのかもしれない。そういうシンクレティズムの形態に対し神様はどう思っておられるのだろうか。悲しんでおられるのだろうか。私たちはそれが異教的なものであると分かったなら、妥協せず、それらと袂を分かつべきではないだろうか。」と、この部分に正面から向き合おう、取り組もうとしているHRMの人々の真剣な姿勢には私は共感を覚えています。

 

そしてこれらの人々の多くが本当に純粋な動機から運動に関わっており、そのエトスには、既存キリスト教の中の不純な(or不純にみえる)要素を取り除こうとする一種の「純化運動」の精神が内包されているように思われます。パリサイ運動もまた、元来、そういった ‟純なるものへの回復の願い" より生じた背景があることを鑑みる時、いよいよ複雑な思いになります。

 

異端研究がキリストの愛と偽りのない同胞愛の内になされる時、私たちは教理の正誤を巡る問題だけでなく、メインストリームの外にあってなにかを必死に叫んでいる人々の問題提起や彼らの心にも思いが行くようになるのではないかと思います。

 

キリスト教会史は、正統と異端の相剋というダイナミズムの中で織りなされ、御霊によって真理が保たれてきたことを証する壮大なる証言集だと思います。

 

どうか、この運動の教義を詳細に検証していく過程で、歴代教会の中で保たれてきた福音の真理が明らかにされ、また、修正/改善されるべき点があるならそういった点も明らかにされ、こうして私たちが皆、キリストを知る知識および愛において成長していくことができますように。