巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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公共圏における21世紀キリスト教の展望(ジェームズ・K・A・スミス、カルヴァン大学)【ポスト近代と福音宣教その①】

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新無神論の旗手リチャード・ドーキンズ(出典

 

James K.A. Smith, Beyond Atheism: Postmodernity and the Future of God(2010年10月カナダ、オタワ大学での特別講義。音声書き起こし。)

 

宗教に関する現代談話の大半ーー特に、世俗主義ファンダメンタリズムとして知られる新無神論陣営(クリストファー・ヒッチェンズリチャード・ドーキンズ)の中に組み込まれている談話ーーを耳にする私たちは、これらをポスト近代性(postmodernity)の表れだと思ってしまいがちです。

 

しかしながら、現実にはどうかといいますと、彼らの言説こそ、近代性(modernity)の最期のあえぎに他ならないのです。世俗主義ファンダメンタリスト(New Atheist)たちは、公共圏からの宗教追放を要求してきました。曰く、宗教というものは非合理的且つ迷信的、時代遅れで未開部族的である、と。そしてこういった考え方こそまさに、近代性が捉えてきた宗教観でした。

 

意外に思う方もおられるかもしれませんが、多くのポストモダン思想家たちは、こういった世俗主義ファンダメンタリストたちの宗教観に批判的なのです。

 

ですから、ヒッチェンズやドーキンズのような新無神論陣営を仮に〈近代性の伝道者〉と呼ぶなら、ポスト近代思想家たちの多くはどちらかと言えば〈預言者〉と捉えることがあるいはできるかもしれません。後者は、近代性の中に内包されている「偶像礼拝」の要素に対し批判的であり、その結果として、(意外なことに!)彼らは公共圏の中における宗教の可能性に余地を残しているのです。

 

ポスト近代思想の真髄は、合理性に関する啓蒙主義の持つ〈前提〉そのものに対する批判です。そして現代の世俗主義を運行させている根柢に横たわっているこの〈前提〉というのは、「合理的でありたいのなら、あなたは自律的、独立独行、偏見なく、中立、客観的且つ、いかなる特定伝統の類からも自由でなければならない」というものです。

 

つまり、‟合理的である” イコール、‟ 伝統/信仰/偏見からの影響を脱却し、それらをうち捨てなければならない” と彼らは主張しているわけです。イマヌエル・カントの言うところの、「あなた自身の理性を用いなさい」です。こういった思想の中で認められ得る唯一の合理性及び知識というのは、「純粋にして、偏見なく、中立的で客観的な理性」のみです。

 

ですから、みなさん、ここからどんな結果がもたらされるかお分かりになると思います。「自分は宗教的である」とあなたが言う時、それはつまり、あなたが合理的ではあり得ないということを意味しています。

 

またあなたが何らかの伝統に依拠しているのなら、あなたは合理的であることができない、とされます。なぜなら啓蒙主義思想によると、宗教や何らかの伝統に依拠するあなたは、非合理的(irrational)であり、従って、宗教というのは、非合理的なものとして、ごみ箱に入れられなければならないのだと。

 

そして、こういった啓蒙主義の思想に対し、マルティン・ハイデッガーや、ハンス・ゲオルグ・ガダマー、ミッシェル・フーコー、ジャック・デリダなどのポスト近代思想家たちは、「いや、そういった『純粋理性』なるものは不可能であるし、それは神話である」と批判しています。そもそも、「一切の偏見なく中立的で、伝統からの影響無しの客観的視点」なるものは存在しないのだと。

 

およそ人間存在と呼ばれるもののうちで、先行するなにかにコミットせず、先行する伝統に依拠せず、まったき客観性をもって物事をみることのできる者は誰一人いない、彼らはそう主張しています。そして、彼らの批判により、宗教を非合理的なものとして公共圏から排除しようとしてきた、従来の近代性の〈前提〉そのものが現在、問題視されるようになってきています。

 

換言すると、世俗主義(secularism)の体系や教理そのものが疑問視され、揺さぶりをかけられ始めているということです。これまで世俗主義の政治的教理は、「公共圏というのは‟中立的”領域であり、それゆえ非合理的な産物である信仰の類はこの領域に入ってきてはならない。公共談話においては『純粋合理』的媒介だけが許容される」と教示してきたわけですが、ポスト近代思想家たちは、「公共圏における中立性?客観性?--そんなものは不可能な理想に過ぎない」と反旗を翻しています。

 

これが意味しているのは、現代、世俗主義はもはや、宗教をただ単に「非合理的なもの」としてあっさり切り捨ててしまうことができなくなったということです。

 

従来、近代性に裏打ちされた啓蒙主義の談話は「合理的談話」という領域を規定し、私たちに言ってきました。

 

「あなたは今から一般大学という ‟中立的” 公共圏(合理的談話)に入ります。ですから、この圏内に入る前に、あなたはあなた自身の個人的信仰やら宗教やら、とにかくそういった個別的なものを外に置いてこなければなりません。」

 

「あなたが何か宗教を信じたかったらどうぞ週末に好きなだけそれをやってください。でも、平日、この ‟中立的” 公共領域に個人的信仰を持ち込むことだけはおやめください。この ‟中立的” アカデミック談話や、‟中立的” 政治談話の中に、宗教は持ち込まないでください。お願いですから。ここはあくまで ‟合理的” な場なのです。」と。

 

それに対し、ポスト近代思想家たちは言います。「あくまで‟合理的” ‟中立的”な場ですと?しかしあなたがたに言いますが、‟合理的” なものと言われているものは、結局のところ、誰かのストーリーであり、誰かのコミットメントの産物なのです。だから、私たち一人一人はむしろ自分のもつ個別性や伝統を持った状態で公共圏に臨んで然るべきだ」と。こうして、現在、非常に興味深い形で、公共圏内での信仰のスペースが再び生まれつつあるのです。

 

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