巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

狭間で生きるのは苦しい。でもその向こうにきっとなにかが備えられているはず。それを期待したい。

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目次

 

交差圧力にさらされて

 

ドイツ改革派の中に古代教会のルーツを接合させようと試みたジョン・ネヴィン*は、その途中、耐えがたい精神的重圧と信仰の葛藤を覚え、1850年から55年の間、ほとんどの役職から身を引き、事実上、隠遁者のような孤独な歳月を過ごしたそうです。

 

しかしそういった狭間での葛藤は、プロテスタントの人々だけの現象ではないようです。社会学者チャールズ・テイラー氏の表現するごとく、世俗の時代に生きる私たちクリスチャンの多くは、競合する信仰諸体系からの交差圧力にさらされ(cross-pressured)、かつての安全ゾーンから(ほとんど無理やりに)未知の外部に押し出されつつあると思います。

 

「(大文字の)教会の外には救いはない」という従来のカトリック教会や正教会の言明についても、現在、伝統諸教会に属する多くの真摯なクリスチャンたちが、ーー同じく交差圧力にさらされる中でーー、その正当性を真剣に問い始めている兆しがあちこちでみられます。

 

2009年にイスラム過激派によって殉教死を遂げたロシア正教会のダニエル・シィゾエフ神父は、「教会(Church)の外には救いがないということを私たちは知っています。ですから、人は、正教会に参入しない限り、永遠に滅び、永劫の火の中に入れられるのです。」とおっしゃったそうですが、正教会の人々も現在「それは本当なのだろうか?」と問うているようです。

 

あるサイトでは、福音派のクリスチャンとして生き亡くなったご両親の永遠の行先の事を案じる正教会の方が、別の神父に、「私の両親は亡くなった後、なんらかの形で正教徒になることが許され、きっと今天国にいると私は信じています」と書いておられました。

 

テレビもインターネットも飛行機もなかった200年前なら、ある宗派の人が他の宗派の人々を一度も直に見ることなく生涯を終えることは十分にあり得ることだったと思います。そして自分とは全く接点のない、はるか遠くにいる見知らぬ他人に対する「滅び」の宣告を受け止めることは比較的容易だったのではないかと思います。

 

しかし現在、私たちの住む多文化・多元情報社会の中では、大文字のChurchに属さないクリスチャンが同じ地区に住み、同じ学校に通い、目に見える ‟隣人”として生きています。そうすると、自宗派の教えを「The教義」として受け入れ、それに最後まで忠実でありたいという元来の願いと、「でももしかしたらそれはキリスト教界に存在する複数ある教義の一つに過ぎないのではないか?」と、それが相対化され得ると判断する、自らの知的統合作用との間で葛藤が生じてきます。

 

「相対主義」をどのように捉えていけばいいのだろう?

 

それで、ここからは私の試行錯誤の思考プロセスなのですが、こういった「相対主義」を一キリスト者はどのように捉えていくべきなのでしょうか。故R・C・スプロール師がおっしゃったように、確かに相対主義には私たちキリスト者にとって抜き差しならぬ危険性が包含されていると思います。

 

 

しかしながら最近私は、この「相対主義」がもたらし得る別の側面(可能性?)についても考え始めています。考え始めたというと格好が良いですが、実際には、ドタバタ苦闘し見苦しくひっくり返った挙句、その混乱と涙の中で「それでは、いっそのこと、これを裏側から考えてみるのはどうだろ?」と思うに至った次第なのです。

 

つまり、全能の主は、こういった「相対化」「交差圧力」の釜の中に私たちをぽーんと放り込み、皆の信仰をガタガタ揺さぶることで、もしかしたらそこから何か新しい、良いものを再創造されようとしておられるのではないかと思ったのです。

 

難民セルの中で生まれた「共通語」

 

さて、数年前のことですが、その頃、ギリシャにボートでやって来る難民たちは、非常に劣悪な地下の留置所に1-1年半ほど入れられていました。私たちは定期的に差し入れを持っていく中で、狭い留置所内にいる難民の方々を個人的に知り、交流する機会が与えられました。

 

その中にトルコ系アゼリ族のサイードさんという40代のクリスチャンの方がいました。彼は14カ月地下室にいる間、一度も髯をそらなかったので、ぱっとみた感じでは、100歳を超えた山の仙人か、もしくは四十日四十夜山の頂にいた旧約のモーセのような物凄い風貌になっており、看守たちは彼のことを「パプー(=ギリシャ語で‟爺さん”の意)」と呼んでいました。

 

パプーは英語もギリシャ語もほとんど知らず、留置所内の難民たちもそれぞれ皆、アラビア語やウルドゥー語やスワヒリ語など別々の言語話者でした。それなのに、パプーは、毎晩、イスラム教徒である彼らと円座になって、彼らを相手に「聖書講話」(つまり、ミニ伝道集会)を開いていたのです!

 

「サイードさん、あなたは一体何語で説教なさっているのですか?」と私は尋ねました。するとサイードさんは「ふむ。分からんな。」と答えました。「分からない?それはどういうことですか?」とさらに尋ねると、彼は答えました。「14カ月もね、昼も夜も同じセルで暮らしているとね、その必死の状況から段々とみんなに通じる〈言語〉が生まれてくる。それが何語なのかは分からない。でもみんな〈それ〉が分かる。」

 

何語かは分からないけれど、サバイバル状況の中で、とにかくみんなに通じる共通語が生まれてきたというのです。

 

ごちゃまぜ軍隊の中で生まれたサバイバル言語コイネー

 

これを聞いて私は、ヘレニズム期のコイネー・ギリシャ語の成立にまつわる「必死の状況」を思い出しました。ダラス神学校のダニエル・ウォーレス教授は、アレクサンダー大王の制覇をもって誕生した言葉であるコイネー・ギリシャ語について次のように解説しています。

 

「古典ギリシャ文学の黄金時代は、事実上、アリストテレスの死をもって終焉を迎えました(BC322)。コイネー・ギリシャ語はアレクサンダー大王の制覇をもって誕生した言葉です。軍隊内でのさまざまな方言の混合と接触を通し、『平準化』が進み、それと同時に、〔征服の結果としての〕ギリシャ植民市の各地出現により、ギリシャ語は普遍的性質を帯びるようになっていきました。

 

 コイネー・ギリシャ語は主としてアッティカ方言から発達してきました。というのも、それがアレクサンダー大王の母語だったからです。しかし、それだけでなく、大王付属の軍隊内にいた兵隊たちの話すその他の諸方言からも影響を受けています。従って、ヘレニズム期ギリシャ語は、強固なマイノリティー語(=アッティカ方言)と、より脆弱な多数派(=その他の諸方言)が歩み寄った結果生じた語だといえます。そのようにして、この語は、民衆にとってより馴染みやすい言葉となりました。」(引用元) 

 

つまり、コイネー・ギリシャ語は、一つの軍隊内にいろんな方言を話す兵士たちが集められ、その人たちが、とにかくどうにかして同じ空間の中でサバイバルし、意志を通い合わせ、折り合いつつなんとか共生していこう(いかねば)という差し迫った時代状況の中で生み出されたチャンポン語だったということです。サイードさんの言葉を借りるなら、「それが何語なのかは分からない。でもみんな〈それ〉が分かる」というような、ある種の普遍性を帯びた言葉です。

 

ヘレニズム期のごちゃまぜ軍隊も、難民セルでのサバイバルも、現在の私たちクリスチャンの生きる多元社会も、それ自体としてはチャレンジが多いものだと思います。

 

しかし主権者なる神がそれらの状況の上におられ、そこから最善を引き出そうとしておられることを知る時、私はこの状況に恐れひるむのではなく、(最大の注意を払いつつも)むしろこの波を福音宣教やキリスト教弁証にとっての好機をとらえ、元気にすいすいサーフィングしていきたいという積極的な思いを心に抱いています。

 

お互いに近くなりたいから

 

私は自分の田舎方言を愛しています。しかし皆と共生し、分かり合おうとしていく中で、自然に私の方言のハードな部分は削げ落ちていくだろうと思います。

 

近年、他宗派の方々からさまざまなプロテスタント教理批判がなされています。これを防御的に捉えるなら、「私たちの教理に対する攻撃」と取れなくもないと思います。

 

しかし建設的なスピリットの内になされる外部からの批判は、裏を返せば、「あなたたちともっと分かり合いたい。もっとお互いに共通の土台に立って、あなたがたと近くなりたい」という隣人からの愛のメッセージと受け取れないこともないと思います。

 

建設的な外部批判を謙遜に受け取り、よくよく自省していく中で、もしかしたら、「へりの部分」(<局地的あるいは時代的に限定された教理や体系)が浮き彫りになり、修正あるいは削ぎ落しがなされ、その結果、公同性への展望がさらに広がっていくかもしれません。そしてそこから思いがけず、疎遠・絶縁になっていた旧友たちとの再会があるかもしれません!

 

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このトンネルの向こうには何があるのだろう?

行方がわからなくなった友、音信不通になってしまった友、行き違いで離ればなれになってしまった友、、、向こうに彼らはいるのだろうか。

みんなに会いたい。

 

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