巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

なぜ司祭たちは、1コリント11:4、7の聖句に反し、典礼の時に頭にかぶり物を着けているのでしょうか?

Pope Tawadros II of the Coptic Church of Egyptl in Egypt in April. The diocese said demonstrators gathered outside the building in Giza and stormed it..

出典

 

1コリント11:4,7

4 男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。

7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。

 

 

上記のサイトでコプト教会の方々が、このトピックについて話し合っています。人々の意見を読んでみると、次のような説明がなされていました。

 

例1「1コリント11:4、7の箇所は、『聖職者』にではなく『信徒』に対して語られている。」

 

例2「1コリント11:4、7のような箇所は、文字通りに読むべきではない。」

 

例3「出エジプト28:36-37節の祭司のターバンの箇所:「また、純金の札を作り、その上に印を彫るように、『主への聖なるもの』と彫り、これを青ひもにつけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。」ーーこれが司祭が典礼中に法帽をかぶることの根拠である。」

 

例4「一介の信徒はそもそも聖書を読んで独自の解釈をするべきではなく、教会を指導する立場にある人々に解釈を委ねるべきである。」

  

しかしながら、例1に関して申し上げますと、1コリント11章でパウロが ‟男”と言及した際、彼の対象としていたのが、「聖職者」ではなく「信徒の男性たち」だけであったということを示す証拠は全くないと思うのですが、どうでしょうか。

 

また4節の次の節でパウロは、(‟男” の対であるところの)‟女” たちに向け、「しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになる」と言っています。新約教会の「聖職者」は男性だけでしたから、ここで言及されている ‟女” は当然、「信徒の女性たち」ということになると思います。

 

ですから仮に、パウロが4節や7節の‟男”という語に、「聖職者ではなく、信徒の男性たちだけ」という意味を込めたかったのでしたら、彼は(誤解を避けるためにも)その事を明確に文字化していたと思います。さらに、7節をごらんになってください。

 

7 男はかぶり物を着けるべきではありません。男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。女は男の栄光の現われです。

 

「男がかぶり物を着けるべきではない」理由として、「男は神の似姿であり、神の栄光の現われ」であることをパウロは明記しています。もしもここで言及されている ‟男” が信徒の男性たちだけであったら、「信徒の男性たちは神の似姿であり、神の栄光の現われである。(しかし聖職者たちはそうではない。)」ということにならないでしょうか?

 

また、「1コリント11:4、7のような箇所は、文字通りに読むべきではない。」という意見ですが、それならばなぜ、コプト教会の敬虔な女性たちは、典礼の時に、1コリント11:5-6節を「文字通り」に読み、ベールを被っているのでしょうか?

 

‟男” たちに向けられた4、7節は、「文字通りに読んだらいけない。」、でも、‟女” たちに向けられた5、6節は「文字通りに読まなければならない」というダブルスタンダードが存在するということでしょうか。

 

それから出エジプト28:36-37節の祭司のターバンの箇所ですが、私は、ここの部分ーーつまり、旧約の経綸と新約の経綸の関係ーーに関する伝統諸教会の解釈に大いに疑問を感じています。

 

新約の経綸下では、男たちは祈りや預言をする時、頭にかぶり物を着けてはならないという掟が出されています。しかし、この方の解釈は、キリストの受肉・十字架・復活・昇天以前の旧約経綸の時点でストップしているのではないかと思います。

 

また、この枠組みの中で、祭司たちの「かぶり物」が正当化されるためには、「新約の『祭司たち』は、1コリント11章の掟を『超越した』特別な存在であり、よって、彼らに限って言えば、(たとい使徒パウロの権威ある命令であっても)従う必要はない。」もしくは、それに類似した理由づけが必要になってくると思うのですが、どうでしょうか。みなさんはどう思いますか?