巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

福音主義クリスチャンが教父文書に親しみ研究する際に留意すべき事(by ハンス・ボースマ、リージェント・カレッジ、教父学)

Patristics

 

目次

 

Hans, Boersma, "Up the Mountain with the Fathers : Evangelical Ressourcement of Early Christian Doctrine," In The Hermeneutics of Tradition: Explorations and Examinations. (Ed. Craig Hovey and Cyrus P. Olsen, 3–24. Eugene, OR: Cascade, 2014.) 序文の部分を拙訳

 

福音主義者たちの間にみられる目覚ましい進展

 

ここ数十年、福音主義者たちの間に目覚ましい進展がみられます。ますます多くの福音主義神学者たちが、教会教父たちの神学に対する関心をみせてきているのです。

 

前世代の福音主義者たちのキリスト教教義(往々にして、三段論法的議論から引き出される真理の命題的諸言明を集めた抽象的・命なき分類としての教義)に対するアプローチや方法に懐疑的になっている現代の福音主義者たちの多くは、神学をする上で次第に〈前近代〉的モードに向かいつつあります。そして彼らは特に教父たちに注目し始めています。*1

 

教父たちへのリソースメント(ressourcement)や回帰は、いろんな意味で、すばらしい事であり、本稿は発芽しつつあるこの動きに微小ながらも何か貢献できればという願いの元に執筆されています。しかしその前に、私は二つの留意点に触れたいと思います。

 

まず第一に、もしも誰かが、‟汚されておらず純粋なままの神学” という、推定上の理想時代を回復させるべく、初代教会の教父たちのリソースメントに取り掛かろうとしているのでしたら、その人の試みはまず間違いなく失敗に終わるでしょう。

 

教父たちの著述を読み始めるとすぐに気づくのが、彼らの中で最も重んじられている神学者たちの何人かはかなり辛辣な性格の持ち主だということです。また当時、教父たちが直面し、彼らが相当の精力を持って取り組まなければならなかった事柄のいくつかは、今日ではもはや問題の中心にはなっていません。

 

ですからそれと同じ問題を蒸し返すことは、(少なくともある程度において)今日性を持たない場合もあるということです。ですから、短絡的にただ ‟初代教会に戻る” というのは、私たちが価値を置き、撤回することを望んでいない後期の諸発展を投げ捨てることを意味しかねません。

 

教父たちへのリソースメントそれ自体はすばらしい事であるでしょう。しかし妥当にして適切なリソースメントというのは決して、「今日私たちがいる場所」から「2世紀の聖エイレナイオスの思想世界」や「5世紀の聖アウグスティヌス神学」にやみくもにポーンと飛ぶことを意味していません。

 

実り多い「教父たちへのリソースメント」は、初代教会における個々の神学者たちの諸限界を認識し、また、教父時代から21世紀の間になされた著しい進展の事実を認めます。ですから、私たちは教会教父たちに対するナイーブな理想化に対し「No」と言わなければなりません。*2

 

二番目ですが、近年、多くの現代福音主義者たちが、いわゆる神学に対する‟近代的”アプローチに対し、否定的な反応をしていることは私も十分に理解しています。しかしながら、教会教父たちの「より直観的、より聖書的、より象徴的アプローチ」を、私たちが感じているところのいわゆる「あまりにも合理的、組織的、命題的な近代神学」に対置させ、決定戦を行わせるというやり方は確実に間違っています。

 

もちろん、こういった広範な輪郭や見取り図にはそれなりの価値があります。また、近代性が、時として厳格に合理的なやり方で神学をやるよう私たちを奨励してきたという部分は確かに否めませんし、それにより深刻な問題が生じてきたことも事実です。しかしそうではあっても尚、私たちは次に挙げる二つの点に注意する必要があると思います。

 

注意点その1

 

(1)教父たちは深遠にして緻密なる思想を忌み嫌っていたわけではありませんでした

 

グノーシス主義者たちに対するエイレナイオスの論駁(2世紀)、人間言語の性質に関するニュッサのグレゴリオスの省察、聖アウグスティヌスによる反ペラギウス論述等を読むと、彼らの知的厳格さ、分析の深さ、そして真理に関する神学的言明を提示し擁護する彼らの熱烈さに私たちは感銘を受け、(もしくは余りの迫力にひるんでしまう?!)ことでしょう。

 

教父たちがほぼ一貫して共有していた確信というのは、人間理性というのが神のかたちを構成するものであり、それが人間人格の最も崇高なる側面であるという認識でした。つまり、教父たちは知的怠慢にうつつを抜かしていたわけではないのです。

 

注意点その2

 

(2)教父たちは決して、神秘と懐疑主義を混同するようなことをしていませんでした

 

今日のポストモダン風潮の中にあって、現代福音主義者たちの多くは、過去の「確かさ」というものに対する反動に傾きやすい傾向を持っています。--ああ、この「確かさ」により、相互に対する誤解があおられ、知的プライドが助長され、教派という教派が仲たがいし、分裂を繰り返してきたと。。。

 

私たちは、前世代の人々が築いてきた知的境界線や建造物にもどかしさや苛立ちを覚え、それらに我慢できないものを感じます。そしてポストモダンの文化風潮は、真理到達に関する私たちの認識的能力に対し、私たちを懐疑主義の方向へ誘ってきます。*3

 

その結果、時に私たちは前近代的神学のアプローチ法に向かいます。なぜなら私たちはうかつにも、「前近代のアプローチは、前世代の福音主義者たちが保持していた命題主義よりも、現代のポストモダン懐疑主義により適している」と思い込んでいるからです。

 

教父たちがモダニティーの合理主義的命題主義に反対したであろうことは想像に難くありません。しかしながら、私たちは、神秘(奥義、機密)に対する教父たちの高い見方と、懐疑主義への転落をはき違えてはなりません。教父たちが探求していた神秘は、今日西洋文化をむしばみ浸食しつつある懐疑主義とは根本的に異なるものです。*4

 

こういった注意事項を念頭に置いた上で、私は以下に上げる5つの側面を取り扱っていきたいと思います。①教理の目的、②教理の基礎、③教理の文脈、④教理の発展、⑤教理の諸制限ーーそしてこれら全てを初代教会に関連づけて論じていきたいと思います。

 

ー終わりー

*1:I am thinking of the ressourcement project initiated by D. H. Williams, the work of Christopher A. Hall and other evangelical scholars, as well as the increasing proliferation of book series on and by the Fathers, also among publishing companies like InterVarsity Press.

*2:This is not to say that ressourcement theologians commonly fall prey to such a naïve idealization. Certainly, thoughtful theologians such as Henri de Lubac and Yves Congar always insisted that retrieval of the Tradition in no way meant simply a return to the premodern period.

*3:It seems to me that this skepticism is evident both among intellectually highly refined philosophers such as Jacques Derrida and Michel Foucault and within a general cultural climate in which people give up searching for truth because they assume it cannot be found.

*4:For more detailed exploration of the difference between skepticism and regard for mystery, see Boersma, Heavenly Participation.