目次
Peter J. Leithart, Called to Eucharist(拙訳)
はじめに
数世紀に渡り、ユーカリスト(聖餐)の神学および実践は、多くの形で歪められてきました。
最も致命的な歪曲の一つはまた、機微なものでもありました。つまり、ユーカリストを、いのちに関するそれ自身の特別区域ーー「聖なる」「宗教的」領域ーーに打ち据えようとする傾向があったということです。「いのちはここにあり、ユーカリストは向こうにある」といった具合に。
アレクサンドル・シュメーマン(1921-1983)は、この傾向が西洋の「シンボリズム」の哲学に深く根差しており、それが、労働、職業、創造性、そしてーーいのちの文化の持つユーカリスト的輪郭に対し、私たちを盲目にさせていると指摘しています。
ユーカリストに関する省察は、文化的智慧の始まりです。そして聖餐に参加することは、正当にも、人間形成の全領域に私たちを向かわせます。
文化的な産物としてのパンと葡萄酒
どのようにしてでしょうか。これを考察するに当たり、まずは明白なものから始めましょう。ーー主の食卓で私たちが食するのは穀粒ではなくパンです。また、私たちはブドウの木からストレートに葡萄を食べるわけではなく、葡萄酒を飲みます。パンと葡萄酒というのは文化的な産物であり、忍耐強く熟練した人間の労働により栄化された被造物です。
創造主なる神は専断により万物をお造りになることができます。イエスは瞬時にして水を葡萄酒に変えられますが、私たちにはそれは不可能です。にもかかわらず、私たちの業(わざ)は神のそれを複製しています。
創世記1章の大半は無より(ex nihilo)の創造ではなく、いかに神が造形し、形なき空洞(void)を満たされたのかについて描写しています。神は世界を手に取り、それを解体し、新しい方法で再びそれを組み立て、新しい名称を授与し、それを「良い」と宣言なさいます。
ジェームズ・ジョーダンが論じているように、この型(pattern)は、人間行動の中に内在しています。私たちは世界を把握し、紛糾し、再構築し、再命名し、その産物の良し悪しを査定します。
私たちは耕作し、植え、育み、そして収穫します。そして穀粒を細かく砕いて小麦粉にし、こね、焼き、それをパンと呼んでいます。さらに、ブドウを絞り、発酵させ、それを葡萄酒と呼んでいます。神のかたちに似せられて造られた者として、私たちは否が応にも創造主の創造性を模倣せざるを得ません。
どう少なく見積もっても、ユーカリストというのは、私たちが被造物の内にもたらしているトランスフォメーションの、明白なる典礼的是認です。
キリスト教は、手つかずの自然が人為による文化よりも優れているとは教示していません。あらゆる変化が皆良いというわけではありませんが、神はそれに変化をもたらすべく私たちをこの世界に置いておられます。
共有された祝祭(shared festivity)としてのユーカリスト
そしてユーカリストはそういった変化に関する妥当なる方向性を示唆しています。ーー私たちの業(わざ)は共有された祝祭を目ざしています。
ここの「共有された "shared"」という部分は大事です。確かに私たちはパンを食するべくパンを作ります。しかし飲み食いするためだけに私たちは造られたわけではありません。私たちの産物はパンというまとまった一つの塊であり、それらは裂かれ、分配されるべくデザインされています。
また「祝祭 "festivity"」という部分も重要です。もちろん、私たちには実利的目標があり、そのため、すみかを得るべく建築し、肉体的燃料補給として食べ物を用意します。しかしたんなる実利的理由で私たちは世界を変容させているわけではありません。
私たちはコックであり、パン職人であり、ワイン鋳造業者であり、漁師であり、庭師であり、農夫です。労働というのはアートワークであり、喜ばしい被造物をさらにそうするべく存在しています。
ユーカリストはまた、私たちの労働の超越的目的を指標しています。労働の目的である‟共有された祝祭”は、神の臨在の中で行なわれます。そして私たちの形成(製造)は、安息日の中で礼拝の中で成就されます。神の前に空手で出ることのないよう、私たちは働きます。
あらゆるものの果てしなき終焉を迎える時、私たちの形成は、天より降りし婚礼の都の中にその居場所を見い出すことになります。この都は、王たちや国々の宝で飾られ、都のいのちは婚宴に他なりません。創造と終末の間にあって、私たちが作り行なうすべては、実にこの祝宴に向け秩序づけられているのです。
ユーカリストは賛美のいけにえであり、self-giftです。神は私たちの贈り物を受け、その後、それらを返上してくださいます。神は、ーー私たちがそれらの贈り物を喜ぶことをよしとしてくださることによりーー、私たちの贈り物を喜んでくださいます。主の食卓では、私たちが製造したものが、主との交わりの手段として啓示されています。
それがゆえに、教会の食事はサンクスギビング(感謝)、つまり、"Eucharist"(< εὐχάριστος, 感謝している)なのです。一見したところ、食べ物ゆえに感謝を捧げるというのはおかしな習慣であるように思われます。というのも、パンや葡萄酒を作っているのは私たちなのに、それでも尚、私たちはそれらのことを神に感謝しているのですから。
しかし実際、私たちは文化についての真理をここで公言しているのです。ーー私たちが作り享受しているものは、私たちへの神の贈り物に他ならないのだと。
サンクスギビング(感謝)はまた、労働の超越的目的を彩り、強調しています。使徒パウロは、神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つなく、それらは神のことばと祈りとによって聖められる(1テモテ4章)と述べています。
私たちが感謝を捧げるときーー主の食卓であれ、わが家の食卓であれ、夕食のテーブルであれデスクであれーー私たちは自分たちの手による働きを神に捧げているのです。
それゆえ、ユーカリストは人類の天職であり、歴史の業(わざ)です。手つかずの被造物が穀粒やブドウに変容し、滋養された被造物が調理や発酵の業により外観を変えます。
そして労働する人や礼拝者たちは、調理された被造物を神との交わりの一環として楽しみ享受します。そして、ユーカリストにおいて、私たちは被造物のクライマックスである、永遠なる小羊の婚宴を眺望するのです!
(執筆者:Peter J. Leithart、Theopolis Institute主幹)