巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

Liturgicalな空間が映し出す美しい男女の役割ーー世俗ジェンダー文化への〈対抗文化造形〉としてのキリスト教礼拝

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こういった光景は、教会の子どもたちの目にどのように映っているのだろう?(出典

 

目次

 

子どもたちを「造形」する世俗ジェンダー教育と現代教会の迎合

 

 

「私が女性司祭であることを辞めた理由*」の中で、元司祭のアリス・C・リンスリー女史は、「司祭としての女性が祭壇に立つことは、聖母マリヤを表すべく男性イメージが企画されるのと同じ位、人々を混乱させるもの」であり、「もしも司祭がイエス・キリストの像(icon)であるのなら、祭司制はキリスト論的事項であるということにもなる」と女性司祭制度が内包する深刻なる問題に言及しています。

 

使徒時代以降、実に1900年以上、キリスト教会はーーカトリックであれ、正教会であれ、聖公会であれ、プロテスタントであれーー普遍的に、男女の役割に関する相補的な立場を尊守してきました。

 

現在私たちが目にしている「女性牧師」「女性司祭」という制度は、20世紀にもたらされたイノベーションであり、そこに聖書的根拠がないのはもちろんのこと、この新企画は、歴史的キリスト教からも悲劇的に逸脱しています*

 

現在、子どもたちは、学校でも、モールでも、アニメ・ゲームの世界でも、世俗の対等主義文化にどっぷり浸からされ、このイデオロギーに沿った造形思想教育にさらされています。

 

そのため現在、ジェンダーの役割に関し、先進国の子どもたちが従来の健全なimagery(像)を実際に目で見、体得できることのできる場所は実質上、キリスト教会やシナゴーグ等の空間に限られてきていると思います。それなのに、、、この肝心かなめな時に、一部のキリスト教会は、混乱した世俗imageryを逆に教会の中に持ち込んでしまっています。

 

一つの時代の幕切れ

 

先月、不品行疑惑で、米国有数のメガチャーチ、ウィロークリーク教会のビル・ハイベルズ牧師が早期引退するという事件がありました*。元同僚の女性たちの訴えと、ハイベルズ氏の弁明には食い違いがあり、事の真相は未だ定かではないと思います。

 

しかしながら、開拓当初から、屈指の福音主義フェミニスト神学者であるギルバート・ビレズィキアン氏(1927~)を長老に抜擢し、「女性牧師制度」をエヴァンジェリカル界に普及・浸透させる上で、Seeker-Sensitiveなウィロークリーク教会が及ぼしてきた影響は計り知れないと思います。

 

ジェームズ・K・A・スミス教授の言葉を借りるなら、「何か巷で‟受けのいい”‟人気のある”文化形態を拾ってきて、その中に福音『メッセージ』を挿入して、それでめでたく“relevant”(今日性を持つ)礼拝を作り出せる」というSeeker-sensitiveな方法論と、フェミニズムは手と手を取り合いつつ、福音主義界を席巻してきたのではないかと思います。

 

みなさんはどう感じておられるか分かりませんが、私個人に限っていえば、ハイベルズ氏の引退は、いろんな意味で、一つの時代が終わったことを象徴する出来事として映っています。

 

伝統的liturgyを求める若い世代のクリスチャン*の探求と視野は、ジェンダーの役割に関する歴史的キリスト教の立場にも及んでいくことでしょう。そして、世俗liturgiesから生み出される倒錯し混乱したジェンダー像とは根本的に異なる、聖書的ジェンダー像が可視的に力強く投影されている美しいキリスト教典礼の中に、若者たちは今後、深い慰めと回復を見い出していくことでしょう。

 

ー終わりー

 

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