巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

〈宗教センター〉としてのショッピング・モール、世俗liturgy、そして対抗文化造形としてのキリスト教礼拝(ジェームズ・K・A・スミス、カルヴァン大学)

われわれは一つの錯覚の中に生きている。ーー世俗という空間が ‟ニュートラル” であるという神話の中に。(出典

 

目次

  

「人はどのようにして大量消費主義者になるのだろうか?」とカルヴァン大学のジェームズ・スミス教授は私たちに問いかけています。

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James K.A. Smith, The heart of consumerism & Desiring the Kingdom: Worship, Worldview, and Cultural Formation(部分要約)

 

文化的 ‟儀式” と心の愛着

 

人間本性を見つめる時、私たちが気づくのは、人の中心にはさまざまな愛着心や切望があり、それらは、多くの場合、私たちが気づかず文化的 ‟儀式”に浸る中で、徐々に形成されているということです。

 

例えば、どのようにして人は、大量消費者になるのでしょうか。いかにして彼/彼女は、あたかもモノが自分を幸せにしてくれるかのような生き方をするようになっていったのでしょうか。どのようにして彼/彼女の心はそのように指向づけられていったのでしょうか。

 

誰かが彼/彼女を議論で説伏したわけでもなく、知的な次元で「これが良い思想なんだ」と誰かに説得させられたわけでもありません。そうではなく、彼/彼女は、リズムや‟儀式”、文化的liturgy(典礼)に浸かっていく中で、次第にある種の〈ビジョン〉を愛するよう方向づけられ、その結果として、現在、彼らはそうなっているのです。

 

〈宗教センター〉としての現代ショッピング・モール

 

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出典

 

さて、あなたの町の中心街にある大きなモールのことを連想してみてください。ここは最も重要なる〈宗教地〉の一つです。

 

巨大な駐車場を出ると、あなたやその他の巡礼者たちは、「聖なる建物」の中に入っていきます。そびえ立つガラス張りのドアやクロムめっきしたアーチは、新しい求道者たちを誘うべくウェルカムな雰囲気を醸し出しています。

 

モール内に溢れるお祭りモードの垂れ幕、色、シンボルは、巡り巡ってくる各種ホリデーや祝祭を律動的(rhythmic)に表出しています。設計は、ラビリンスに似ており、そこには「さまざまな聖人たちに捧げられたチャペル」が所狭しと並んでいます。

 

立体感のある3Dのイコン、彫像、動くイメージは、「グッド・ライフ」を具現化しており、それらは「イコンの内に喚起される聖人産出の手法に、自発的に自らを献身するよう」私たちを誘っています。

 

どのチャペルに入ったとしても、あなたはすでにそこでの‟儀式”を空で覚えています。「いらっしゃいませ。」とミサ仕えの侍者がうやうやしく接客に出てきますが、決して押し付けがましくはせず、あくまでもあなた自身が驚きと喜びを見つけ出すべくチャペル内を探索できるよう配慮してくれます。

 

その場のスピリットがあなたの求めているものの所にあなたを導くと、あなたはそれを「祭壇」に持っていきます。すると、祭司が「最終決算を統括」してくれます。あなたは捧げ物をし、祭司の「祝祷」を受けながら外に出ます。そう、チャペルのイコンの内に具象化されたグッド・ライフにあなたが参加していることを確証する有形のモノをしっかり小脇に抱えながら。。。

 

対抗文化造形としてのキリスト教礼拝(Worship as Countercultural Formation)

 

私たちは皆、「切望する生き物」であり、それぞれが自らの「王国観」に従い生活しています。しかし皆が同じ王国を望んでいるわけではありません。事実、クリスチャン自身、異なる王国観にまつわるさまざまな競合ストーリーに囲まれて生きています。実際、ショッピング・モールや大学、国民性といった文化諸機関は、必死に私たちの忠誠心や愛をわがモノにしようと立ち働いています。

 

そしてそれぞれの王国は、人の価値観を反映すべく私たちの心を志向づける肉感的、可視的、触知的な肉体的諸慣行を実施し、それぞれが、人の価値観を形成する共同的典礼(liturgies)を施行しているのです。

 

それがゆえに、(キリスト教学校、カテキズム、礼拝を通しての)私たち教職者の尽力にもかかわらず、マーケットやモールで行なわれている文化liturgies(典礼)は、子どもたちの想像力をがっちり捉え、彼らをそこから離さないのです。

 

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出典

 

ディズニー映画やモールに溢れている「グッド・ライフ」に関する各種ストーリーやイメージは、信仰者としての私たち親や牧師が与えることのできる信仰内容を「上回る形で」子どもたちの中に深く浸透していっています。

 

子どもたちは宣伝広告からもろに影響を受けています。なぜならそれはビジュアルで触知的であり、且つ、ナラティブと想像力に富んでいるからです。

 

しかしながら造形としてのliturgyに欠けた現行のキリスト教礼拝は、こういった世俗liturgiesに対する〈対抗措置〉としての機能を十分に果たし切れていません。なぜなら、現行のキリスト教礼拝の多くは、私たちの想像の琴線に触れるような心象イメージやストーリーを欠いているからです。

 

そういう意味でも、自分たちを取り巻く文化を典礼的(liturgical)に見ることは重要だと思います。実際、多くの人々は典礼的な視野で世界を見るようになるにつれ、「ああ、なるほどそうだったのか!」とさまざまな気づきが与えられるようになります。

 

そして「自分たちの文化に存在しているメッセージは何か?」という従来の問いの代わりに、彼らは自分たちの文化的イマージョンや参加という行為に実際何がかかっているのかということを洞察する新しい眼鏡を取得するようになります。

 

典礼的なレンズで世界をみるようになると、教会の人々は、自分たちの礼拝が、もしかしたらモールや、コンサートや講演会的なものに類似しているのではないかと気づき始めます。そしてそういった現行の礼拝からは、キリストに従う者たちの共同体というよりはむしろ、個人的消費者や観客を輩出してしまっているのではないかという自省が起されるようになります。

 

告白、安心感、そして聖餐

 

礼拝の中で私たちが恒常的に行なう(or 行わない)ことは、私たちの自己理解や世界観を強固にするものです。求道者にやさしい礼拝(seeker-sensitive services)では往々にして罪の告白と赦しによる確証の部分が省かれます。(なぜなら、この慣習は奇妙な印象を与え、人々に不快感をもたらすかもしれないからです。)

 

しかし自分のしくじりや過ちに対し正直であるという、週ごとのこの「処方計画」は、「自分自身を信じましょう」という世間に溢れるオプラ的メッセージに対する対抗措置となります。

 

ショッピング・モールにも、罪に対する独自の観念があり、それは四方八方から私たちにメッセージを送ってきます。--お前はデブだ。お前はカッコ良くない。お前はダサい。お前はニキビだらけだ、、、と。しかしモールは私たちに何ら憐みを提供しません。それは残酷にもあなたを恥辱の中に放置することで、あなたがその「罪」を克服すべくさらに購買するよう、けしかけてきます。

 

しかし赦しを提供する神よりの確証は、それとは対照的に、くずおれた私たちの心の中に与えられ、こうして安心感と福音は私たちを癒し満たしてくれます。

 

私は個人的に、聖餐(Eucharist)が月ごとではなく週ごとに行なわれることを望んでいます。礼拝者たちがパンと葡萄酒を受けるべく前方に進みゆくその姿は、福音がまさに手から手へ、人から人へと直接的に伝えられていく像(picture)を映し出しています。

 

競合するその他の文化的liturgiesが、人々の愛情の部分を形成すべく精力的に立ち働いているのだとしたら、キリスト教礼拝は、尚一層のこと、心動的(affective)であることに注意を払うべきだと思います。

 

聖餐の祝祭は、王国の経済に関する規範的像の縮図です。そこでは誰かの買い占めによって他の人々が欠乏することはありません。実に、パンと葡萄酒は自由に、そして平等に分配されているのです!