巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

エヴァンジェリカル遊牧民のはてしない物語

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出典

 

正教会神学者のロバート・アラカキ師が、最近のいわゆる‟ポスト・エヴァンジェリカル折衷主義者*”たちのことを、「よりグリーンな牧場を求め、あくせくと動き回る宗教的遊牧民」に譬えているということを前の記事で書きました。アラカキ師はもちろん‟根無し草”としての現代福音主義の有様を皮肉ってこのように表現したのだと思います。ですが、「遊牧民」というなんとも詩的なimageryは逆に私を、モンゴルの大草原へと運んでいきましたーー。

 

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どこまでもどこまでも草原のなびく大地。目を覚まし、顔を上げるとスーホの白い馬が彼方の地平線を走っています。横をみると、やさしそうな人たちがたくさんいて、皆、にこにことしています。

 

「こんにちは、みなさん。どこから来たのですか?」

「ああ、わしらはね、それぞれ皆事情があって自分のゲットーを出てきたのだよ。それでな、そこから、《はてしのない旅》が始まった。」

 

「《はてしのない旅》?それでは、この旅には終りがないのですか?」

「一つの終りが次の始まりだ。だからそれは、果てしがない。」

 

「どこに向かっているのですか。行先は?」

「行先かね。それは主がご存知だ。わしらはテントを張って仮住まいする。そして空を見る。ほら、今、雲がテントの上にとどまっとるだろう?だからわしらはここにいる。でもいつか雲がテントを離れて上る日が来るだろう。その時、わしらは主の命令によって旅立つんだ。」

 

瞬く間に私はこの人たちが好きになりました。

 

♪ おお、草原を駈けめぐる遊牧民。

何も持たず、何も持てず、

彼らは移動をつづける。主と共に。

 

周りをみわたすと、遠くに点々と、馬にのった男の人たちがみえました。皆、不思議な形の兜(かぶと)をかぶっています。私は隣にいる人に訊ねました。

 

「遠くの方に、兜をかぶって馬に乗った人たちがみえます。あの人たちは誰ですか。」

「ああ、彼らはね、《武将》たちだよ。群れを護衛し、先導している勇者たちだ。」

 

「どうして彼らはぽつぽつと点在しているのですか?どうしてみな一人でいるのですか?」

「彼らは一人ではない。主が共におられる。だが、今はこうあらねばならない。孤高というのがあの人たちに与えられた使命なのだ。」

 

「うん、でもなんだかかわいそう。」

「荒野でのモーセを思い出してみるがいい。『彼は主の姿を仰ぎ見ている』(民12:8)」。

 

それを聞いた旅びとたちは声を合わせ、モーセの歌を口ずさみ始めました。

 

♪主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。/わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。

 

それにしても、、この群れは不思議。〈時〉が前にいったり、後にいったりするのです。アナクロな過去の追憶の草原を通っているかと思いきや、しばらくすると、私たちは〈今〉をずっと超えた彼方の岩の上に立っていたりします。

 

「『故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る。』という古の智慧のことばを知っとるだろう?時の統治者である主は、時空を超え、縦横無尽にわれわれを導くことがおできになる。実にわれらの主のなさることは計り知れず、その智慧は無限だ。だから過去であれ現在であれ未来であれ、われらはどこまでも安心してこの御方についていくことができる。」

 

さあ、黄金色に染まった草原をすべりつつ、両手をいっぱいひろげ主を讃えよう。

 

♪わがたま、いざたたえよ、聖なるみ神を。

わがたま、いざたたえよ、聖なるみ神を!