巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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聖ヨハネス・クリュソストモスについて(『ベイカー福音主義神学事典』)

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教父ヨハネス・クリュソストモスーー。正教会、東方諸教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会で、聖人として崇敬されています。(出典

 

ヨハネス・クリュソストモス(347-407)

 

Walter A. Elwell, ed., Evangelical Dictionary of Theology, Second Edition, 1984("Chrysostom, John"の項を拙訳)

 

執筆担当者:Harlie Kay Gallatin(南西バプテスト大、キリスト教史)

 

Harlie Kay Gallatin

ハーリー・ケイ・ギャラティン師

 

ヨハネス・クリュソストモス( Ἰωάννης ὁ Χρυσόστομος)はギリシャ教会の博士と言われている一人です。ヨハネスは、シリアのアンティオケに生まれ、未亡人であるキリスト者の母親に育てられました。

 

かの有名な教師リバニウスの下で修辞学および法学を学んだ彼は学問に秀で、弁護士としての地位も得ました。しかし、献身への思いが強くなるにつれ、そういったキャリアに満足できなくなり、彼はキリスト教禁欲主義の道に入っていきました。彼は監督メレティウスによって洗礼を受け、アンティオケ学派の教師であるディオドーロス(後のタルソ司教)に師事しました。

 

数年の間、ヨハネスは家の中で修道士としての生活を送りつつ、母親を助け、また礼拝の際の朗読者としてメレティウスを介助しました。母親の死後、373年頃、彼はアンティオケを去り、山の中で、より厳格な修道生活を送るようになります。実に、山での隠遁の間に、ヨハネスは新旧約聖書を暗記する機会に恵まれたのです。しかし訓練の厳しさがこたえ、健康を害したため、彼は再び都市に戻り、より緩和された生活を送るようになりました。

 

381年、ヨハネスは執事に任命されます。386年、新しい司教フラヴィウスは彼を長老に任命し、説教の奉仕をあてがいました。こうして高い学術性と敬虔に裏打ちされた彼の修辞的語りによる説教は評判となり、聖書講解の第一人者としての名声を得るようになっていきました。彼の公的説教集、論文、書簡等は、後代の人々によっても高く評価されています*1*2。6世紀頃から彼は〔黄金の口を持つという意で〕クリュソストモスと呼ばれるようになっていきました。

 

398年、ヨハネスはコンスタンティノープルの大主教になりました。彼は聖職者たちのだらしなさや怠惰さ、そして都市の乱れた生活を矯正すべく奔走しました。また、彼は、皇帝の妃であったアエリア・エウドクシアを含めた、都市の富裕婦人たちの豪奢な生活ぶりに対しても臆することなく警告のメッセージを発していました。

 

皇后アエリア・エウドクシアと対峙するヨハネス・クリュソストモス(1893年にジャン・ポール・ローランスによって描かれた歴史画)出典

 

そのため、エウドクシアや、幾人かの監督たち、そしてアレクサンドリアの大主教テオフィロスまでもが、一度ならず、ヨハネスを退位させようと共謀しました。404年、ヨハネスは東方の辺境へ流刑されました。そして3年後、彼はさらに辺鄙な場所へ向かうよう強制され、その道中、極度の疲労及び〔炎天下や雨の中を歩かせ続けるという残酷な処遇による〕劣悪な環境がもとでついに命を失いました。

 

彼の説教は、聖書の、文字通りそして文法的釈義から引き出された霊的・倫理的適用を含んでおり、特にパウロ書簡、マタイの福音書、ヨハネの福音書でそれが効果的にあらわれています。彼は主要な論争で中心的な役割を果たしたわけではありませんが、アンティオケ派の教父たちの中でヨハネスは最も有名であり、そして間違いなく最も正統な教父でありましょう。*3

 

(執筆者:ハーリー・K・ギャラティン)

 

〔参考文献〕 D. Attwater, St. John Chrysostom, Pastor and Preacher; P. C. Bauer, John Chrysostom and His Time; D. Burger, Complete Bibliography of Scholarship on the Life and Works of St. John Chrysostom; J. N. D. Kelly, Golden Mouth: The Story of John Chrysostom, Ascetic, Preacher, Bishop; S. C. Neill, Chrysostom and His Message; J. Pelikan, Preaching of Chrysostom; P. Schaff, “Life and Work of St. John Chrysostom,” NPNF 9:3–23; R. V. Sellers, Two Ancient Christologies; W. R. W. Stephens, Saint Chrysostom: His Life and Times; B. Vanderberghe, John the Golden Mouth.

 

関連記事

*1:正教会におけるヨハネス・クリュソストモス(=金口イオアン)中世半ばから、ヨハネス・クリュソストモスは、大バシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリオスとともに三成聖者(Οι Τρείς Ιεράρχες, Three Holy Hierarchs)として合同の祭りをもつようになりました。大バシレイオスの制定したとされる聖体礼儀の奉神礼文を簡略化して整備したことでも知られています。ビザンチン奉神礼で通常用いられる「金口イオアンの聖体礼儀」は彼に帰せられますが、現在使われる形は彼より後の付加によって発展したものであると考えられています。正教会に於いて、聖体礼儀(カトリックでのミサ、プロテスタントの聖餐式に相当)は他の奉神礼(礼拝)と同様、歌唱されます。伝統的な旋律・聖歌は東欧を中心とした各地正教会に存在しますが、近世以降、「金口イオアンの聖体礼儀」に作曲した作曲家も多数存在します。チャイコフスキー、ラフマニノフ、リムスキー=コルサコフ、などによるものが音楽的に知られています。(参照

*2:ヨハネス・クリュソストモスの西方教会への影響。ヨハネスは西方教会にも影響を及ぼしました。カイサリアのバシレイオス、シリアのエフレム、エウアグリオス・ポンティコスらの著作とともに、彼の講話・書簡・論考が古今を問わず西方の修道院で個人的に読まれ、また食卓などで公に読まれたことが知られています(ジャン・ルクレール『修道院文化入門』神崎忠昭・矢内義顕訳, p.122)。また、教会の教えに対するヨハネスの影響は現代のカトリック教会のカテキズムにもみられます。カテキズム18番では彼の教説、中でも祈りの目的や主の祈りの意味に関する彼の説明が次のように引用されています。「私たちの美徳が私たち自身の努力のみによるものではなくむしろ天からの恩恵によるものであることを示すことで [イエス・キリスト]がいかにして私たちに謙遜することを説かれたかを考えてみよ。彼は祈りをささげる忠実な信者たちに、世界全体に対して普遍的に祈るよう命じられた。彼は「あなた方は私の、私たちの内で実現される」ではなく「地上で実現される」とおっしゃったのだから、過ちはそこから払いのけられ、真理がそこに由来し、あらゆる悪徳がそこにおいて破壊され、美徳がそこにおいて栄え、地上はもはや天上と異ならない」(John Chrysostom, Hom. in Mt. 19,5: PG 57, 280.)。また、R.S. Storrのようなキリスト教の聖職者は、彼を指して「使徒時代以来真理と愛に関する神の使信を人類にもたらした最も雄弁な説教家の一人」と述べており、19世紀のジョン・ヘンリー・ニューマンもヨハネスのことを「快活で明るい、穏やかな精神;高い感受性を持った心と評しています。(John Henry Newman, "St. Chrysostom" in The Newman Reader, Rambler:1859)参照

*3:〔訳者注〕