巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

世俗の時代とは何だろう?そして私たちクリスチャンはどのように生きていけばいいのだろう?(by ジェームス・K・A・スミス、カルヴァン大学)

主よ、なにをどのように信じていったらいいのか教えてください。(出典

 

目次

 

はじめにーー世俗の時代とは? 

 

以下は、2016年3月ウィートリー学院で行なわれた特別講義「いかにして世俗的になるか(ならないか)ーー新ミレニアムへの応答 "How (Not) To Be Secular:Responding to a New Millienium"」の記録です。

 


ゲスト講師は、ミシガン州にあるカルヴァン大学の哲学科教授ジェームズ・K・A・スミス氏です。スミス氏は、チャールズ・テイラー(『世俗の時代』)の現代文化分析を基に、信条的正統派プロテスタントおよびその共同体が世俗の時代にキリストの証人として生きることの意味を大学生たちに問いかけ、共にこの難題にタックルしています。

 

私はスミス氏の分析の鋭さ・的確さもさることながら、彼の正直さに感銘を受けました。ひと昔前なら、プロテスタントの家で生まれた人は、ルターの英雄伝を読み、5つのソラを覚え、アウグスティヌスの『告白』を読み、カルヴァン5教理を学び、「恵みの教説」「信仰義認説」「万人祭司説」を学び、プロテスタントとして生き、生活し、そうした上で無事生涯を終えることがそれなりに可能だったと思います。

 

しかしスミス氏の指摘するように、現在私たちは、自分のなじみの‟信仰セット”とは違う、(しかもそれなりに説得力のある)その他複数の信仰的オールターナティブに日々接する世界に生きています。

 

数十年前までは、一プロテスタントの視界に入ってくるものは、「新教 vs 旧教」が主だったと思います。しかし現在では、それに加え、「正教」という別のナラティブ、別の教会伝統の視点が併存するようになってきています。

 

そうすると、「恵みの教説」「信仰義認論」「5つのソラ」「万人祭司説」という、旧教との相克の中で生まれた新教教理が、これまでのThe doctrineという捉え方からa doctineという捉え方に引き降ろされてしまうような、そのような恐怖と揺さぶりが新教信者に襲いかかります。(同じ事が他の宗派の信者たちにも言えるでしょう。現在では、どんな閉鎖的・保守的宗派も、かつてのような内輪の ‟ゲットー” に安住する贅沢はもう与えられていません。)

 

こういった状況を、チャールズ・テイラーは「ノヴァ効果」(Nova Effect)と呼んでいます。ノヴァ効果とは何かというと、(わたし的な表現で言えば)まず、大きな圧力鍋の中にみんなぽーんと投げ込まれます。

 

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ノヴァ効果(チャールズ・テイラー『世俗の時代』より)出典

 

私は自分の教会(教派)の教えに忠実でありたいし、それが真に聖書的なキリスト教だと信じている(<信じたい)。でも、その圧力鍋(Secular Age)の中は、ありとあらゆる別の信仰/教義体系オプション(「第三の道」)が押し合いへし合いしつつ互いに競合しており、自分の信じる信仰もその中の一つとみなされています。

 

ですからそういったプレッシャー圧力鍋(‟交差圧力 cross-pressured”)の中では、かつてのように自分の信じる信仰体系を自明のことのようにみなしたり、万人に対してそれがデフォルトなものであるかのように考えたりすることはもはやできないし、あり得ない、、、これが現代の世俗時代の様相であり、聖書信仰のクリスチャンといえどもこの環境から逃れることはできない、、

 

この事に関し、一橋大学の坪光教授は次のように述べています。

 

 「かつてなく増大したこれらのオプションの多元性こそがむしろ、今日の世俗性をもっとも直接的に規定するものと理解されるべきである。この多元的状況においては、いかなる立場にある者もナイーヴな自己確証からは遠ざけられる

 

 「世俗の時代」とは、諸オプションが互いにせめぎあう、交差圧力に満ちた相互脆弱化の時代に他ならない。テイラーがその信仰の条件と呼んで明確化しようとしたものは、他ならぬこの多元性それ自体と、そこに生きる多様な信仰を持つ人々の自己理解を枠づける「文脈」な いし「背景的理解」であった。テイラーはこれを「内在的枠組 the immanent frame」という概念を用いて記述しようと試みる(『世俗の時代』, ch.15)。  

 

、、そこで明らかにされるのは内在的枠組の多元的な構成、またそこに生じる多層的なジレンマや交差圧力の諸相であった。おおむね、内在的枠組は超越への「閉鎖」と「開放」 との二極へと向かう諸力によって引き裂かれる場として理解される(SA, 555)。そこでは、ありとあらゆる信仰と不信仰の存在がそれぞれ互いに他方の確信の基盤を掘り崩しあうのである。」(引用元

 

そしてスミス氏は、教会は、そういった複数の信仰諸オプションが現実に存在しているというこの事実に目をつぶろうとしたり、あたかもそれが無いかのようなフリをしたりするのではなく、まずは正直にその現実を認めるべきである、そして教会のこの現実認識は特に、葛藤を覚えている若い世代のクリスチャンたちに寄り添う上で必要な姿勢であると彼は言っています。

 

スミス氏の言説で興味深いのは、世俗主義者たちの定義する「世俗主義」が実際には擁護不可能なものであり、むしろ非世俗主義者たちの「世俗主義」分析モデルの方が、現象の複雑性をより正確に捉えているという論点です。以下、講義の内容を要約してみます。

 

講義の内容

 

Secular(世俗)という言葉には現在、3種類の異なった定義がある。

 

定義1.神聖(sacred)の反意語としての ‟俗”

 

定義2.中立的で、偏りがなく、客観的、合理的、そして非宗教的。

 

例)宗教系大学vs一般大学(religious university vs secular university)

→この定義は世俗主義者たちによるもの*

→実際にはSecularが「中立的で偏見なく客観的、合理的、非宗教的」というのは神話*

→世俗主義(secular-ism)と言う時のsecularは、大抵の場合、定義2の意味で用いられている。⇒宗教的 ‟声” を公共圏から締め出そうとする一種のドグマチックなアジェンダ。

→ここで語られるストーリー:西洋文化は、啓蒙化され、科学の発達と共に人々はますます宗教や神話から遠ざかっていっている。

 

定義3.非世俗主義者たちによる意味づけ。(以下)

 

● 世俗性というのは、不信仰と同義語ではない。

 

世俗性 ≠ 不信仰 ≠ 反宗教性 ≠ 無神論

そうではなく、世俗性=信仰をめぐる競合性

 

● いわゆる「世俗」というのは、達成であって、ただ単に超越性から「引き算」した時に残った「残りもの “left over”」ではない。

 

ー世俗の時代に関する〈引き算のストーリー〉によると、

古代・中世期、人々は神とか、神話とか、そういう空想的なものを大真面目に信じていた。

そこにデカルト、カント、ドイツ啓蒙主義が登場。人々は「啓蒙」され、科学が発達。

神話的、宗教的、迷信的、超自然的なものを「引き算」した結果、残ったものは、自然的宇宙に関する堅く、客観的な合理性だった。

 

● 内在的枠組み("Imminent frame")

 

ー内在的枠組みとは、自然的力によってのみ統治されている閉鎖的宇宙のこと。

 

ーそしてこの枠組みから、「排他的ヒューマニズム("exclusive humanism")」が生成してきた。⇒超越性や永遠に全く訴えることなしに自分は意味ある人生を送ることができると人々は考え始めた。(*こういった考え方は前近代ではあり得ないことだった。)

 

ーしかし、内在的枠組みは、圧力鍋であり、皆その中に詰め込まれ、混線するプレッシャーをいたるところから感じている。

 

ーだから、世俗性は信仰を終焉させるのではない。そうではなく、「混線するプレッシャー」が多くの他の信仰体系モードに関する「ノヴァ効果」を生成させているのである。

 

ー私たちは皆、各種信仰体系が競合する圧力鍋の中に放り込まれているので、「他の信仰オールタナティブのことなど聞いたことがない」と、しらばっくれる事はできないし、そんなフリをすることもできない。

 

ー従って、これが意味するのは、〔前の時代に比べ〕信仰者としての自分の信仰は「本当にこれが唯一正しい答え(体系)なのだろうか?」という懐疑に悩まされやすくなっているということでもある。

 

ーしかし、ここには別の側面もある。

⇒もしも信仰者が‟懐疑”に誘惑されやすくなったのだとしたら、未信者は未信者で、‟信仰”に誘惑されやすくなっているということでもある。つまり、この圧力鍋の中では、信者であろうと未信者であろうと、誰に対しても例外的措置はとられておらず、皆が複数のオールタナティブの中に置かれており、超越性(=神)は世俗時代のただ中で、今も尚、人々の心の戸をノックし続けている。

 

●「受肉(incarnation)」から「脱肉(excarnation)」への移行

 

ーキリスト教は、私たちが「脱肉」 と呼びうるものーー具体化され受肉した宗教的生の形態から「頭の中」にある形態への移行ーーを経験してきた。そして、これと並行して、「啓蒙」や近代不信仰文化一般が進展してきた。

 

ーしかし実際、多くの若者たちが、こうした内在的枠組みを超えたところに人生の意味を探求しようとし始めている。

 

ー世俗主義者は、世俗主義=非宗教・脱宗教化と定義するが、実際にはこれまで以上に人々は宗教的になってきている。(スピリチュアル・ブームもその一例。)

 

ープロテスタント教会は、ここ30-40年、世俗文化にrelevantであることを第一の宣教メソッドにしてきた結果、教会はスタバやロック・コンサート化した。→その結果は悲惨なものであった。

 

ーしかし世俗時代に生きる人々はむしろ、「敷居が高く」濃密で、よりオーソッドクス且つ伝統的バージョンの霊性に魅力を感じており、そのような信仰共同体が今後、ポストモダン世界に生きる現代人の「超越性への求めと渇き」に真の意味で答えていくようになるだろう。

 

ー終わりー

 

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