巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

正教会の光と闇ーー「隠れ学校 "κρυφό σκολειό"」の神話と民族ナショナリズム

ニコラス・ギズィスによる「隠れ学校」油絵(1885年作)出典 

 

上は、現代ギリシャ人なら誰でも知っている、有名な「隠れ学校」(ギ κρυφό σκολειό, 英 secret school)の絵画です。作者は、ニコラオス・ギズィス(Nikolaos Gyzis、1842-1901)です。

 

この絵は、ギリシャの近現代ナショナリズムの物語の中における、正教会の「役割」を描き出したものとして象徴的な意味を持っています。

 

この物語の中では、ギリシャはオスマン帝国の圧政下(15-19世紀)、言語と文化を奪われ、虐げられています。そんな中にあって、ギリシャ正教会は常に虐げられた抑圧民の避け所でした。正教会の神父たちは、母語を学ぶ機会をはく奪された哀れで貧しいギリシャ人子弟たちのために地下に「隠れ学校」を作り、そこで彼らにギリシャ語およびキリストの教えを説いた、とされています。

 

しかし近年、学術的研究が進み、オスマン帝国内の多くの場所において(特に18世紀中盤)、実際には、公式のギリシャ語学校が運営されていた史料が豊富に見つかり、「隠れ学校」なるものが存在していたことを示す証拠はない、ということが歴史家たちの一般的コンセンサスとなっています。*1

 

つまり、「隠れ学校」のストーリーが国民ナショナリズム高揚のために作られた ‟神話”であったこということが発覚したのです。1970年頃までは、ギリシャの小学校の国定教科書で、この物語は「歴史的事実」として記述されていましたが、現在は削除されています。

 

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«Κρυφό σχολειό» : Θρύλος ή ιστορική πραγματικότητα | Διακόνημα

 

しかし、ギリシャ正教会は現在に至るまで頑強に「隠れ学校」が神話ではなく歴史的事実であることを主張し、2007年には使徒的ディアコニア正教出版社からΤο Κρυφό Σχολειό: Μύθος ή Πραγματικότητα;(=隠れ学校:神話かそれとも事実か?)という声明書を出し、次のように述べています。

 

「歴史的史実および現代ギリシャの歩みに無知か、もしくは故意にそれらを歪曲しようとしている者だけが、われわれの正教会の果たした民族的、社会的、教育的役割に対し疑問を差し挟んでいるのです。そしてそういった一般的疑惑の中に、『隠れ学校』に対する否認も含まれています。われわれの教会、つまりオーソドックス教会は、虚偽を必要としておらず、また神話も必要としていません。これはモラルを促進させます。実に、ギリシャ・オーソドックス的倫理観は、21世紀に向けてのわれわれ民族の歩みのために必要不可欠な精神的武具でもあります。」(出典

 

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An Orthodox Christian priest holds the Greek national flag... Pictures | Getty Images

 

1901年に、軍隊の発砲と騒擾の中で八名の死者まで出した「福音書事件」においても、正教会は一貫して、民族主義者側に立ち、福音書の口語訳を禁止することを決定しました。*2

 

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ギリシャ民族主義極右政党「黄金の夜明け」を公に‟祝福”する正教会祭司(2012年)出典

 

戦時中のローマ教会と、ムッソリーニのファシスト政権との癒着は有名ですが*3*4、民族ナショナリズムに特定宗教が結びつく時、さまざまな形で「神話」が創り出されるという事実を、「隠れ学校」の絵は如実に物語っていると思います。

 

 

*1:Alkis Angelou, Κρυφό Σχολείο: το χρονικό ενός μύθου (Secret school: the chronicle of a myth), Athens: Estia, 1997(初版1977)/ Christos G. Patrinelis: "Η διδασκαλία της γλώσσας στα σχολεία της Τουρκοκρατίας" ("Language [i.e. Greek] teaching in schools of the Turkish period"). In: M. Z. Kopidakis (ed.), Ιστορία της Ελληνικης Γλώσσας (History of the Greek Language) Athens: Elliniko Logotechniko kai Istoriko Archeio. 216-217. / Meselidis Stylianos, Teachers, History Wars and Teaching History Grade 6 in Greece, in Joseph Zajda, Globalisation, Ideology and Education Policy Reforms, Springer, 2010, p. 47.

*2:村田奈々子著『物語近現代ギリシャの歴史』p.110-113.「翻訳に反対した者たちにとって、福音書の口語ギリシャ語への翻訳は、反民族的な裏切り行為だった。なぜなら、ギリシャ語は、古代から近代まで継続してきたギリシャの歴史の重要な根拠だったからである。古代から近代にいたるまで、ギリシャ語とは単一の言語であり、いくつかのギリシャ語が存在するということは、あってはならないことだった。そのギリシャ語を当のギリシャ人が理解できず、「翻訳」という作業を必要とするという主張そのものが、近代ギリシャが依拠するイデオロギーを否定していると、反対派は見なしたのである。さらに、福音書の口語訳は、古代ギリシャとの紐帯を切断するのみならず、正教キリスト教への冒涜ともみなされた。聖書を口語に訳して布教するやり方は、プロテスタントの常套手段だった。反対派は、口語訳の出版の背後に、プロテスタントの影響力拡大の試みを嗅ぎつけ、それを正教会に対する脅威として恐れたのである。要するに、福音書の口語ギリシャ語訳に反対した者たちは、口語訳が、近代ギリシャ人のアイデンティティーを支えるふたつの柱ーー古代ギリシャと正教キリスト教ーーへの攻撃であると受け取ったのである。当初、新聞紙上で繰り広げられた、翻訳賛成派と反対派の知識人の論争は、やがて大規模な反対デモ行進と集会を誘発した。反対派の中心はアテネ大学の教授陣と学生だった。学生は、民族と連帯して反対の意志を示そうとした。1901年11月、学生と民衆の一団はついに直接行動にでた。彼らは、パリスの口語訳を掲載して、翻訳への支持を表明していた新聞社アクロポリスを襲撃した。続いて、ギリシャ王国の正教会の長であるアテネ大主教宅へ向かい、ギリシャ王国の宗教会議が、今回の口語訳をいかに評価するのか明らかにするように要求した。宗教会議は、今後一切、福音書の口語訳を禁止することを決定した。しかし、今回の出版に対する処分については明言を避けたため、学生たちの怒りと興奮は高まった。事態の悪化を懸念した政府は、治安維持の目的で、軍隊を配備した。学生たちが直接行動をはじめてから4日目、アテネの中心部にあるゼウス・オリンピオス神殿で、3万人から5万人を集めた大集会がおこなわれ、福音書のギリシャ語に変更を加えないことに賛成する決議がなされた。その後、集会に参加していた群衆は、アテネ大学までデモ行進をおこなった。そのとき勃発した騒擾に対して、不測の事態を予測して配備されていた軍隊が発砲した。群衆のなかには、この発砲に銃で応じる者がいた。両者の衝突で、8名が死亡した。8名の死者は、ギリシャ民族の信仰と言語を守るために落命した「殉教者」と位置づけられた。福音書の口語訳に反対した者たちは、彼らの死は、ギリシャ民族にとって必要な犠牲だったと、自分たちの「闘い」を正当化した。この事件をめぐって、数日後にテオトキス首相は辞任し、新たな内閣が組閣された。(同著,p.112-113)関連記事

*3:われわれは、ローマ・カトリック教会の全体主義国ロシアに対する敵意は、全体主義そのものに対する敵意ではないことをわきまえるべきである。一国が教皇制の機能を承認する場合には、たとえその国が全体主義であっても教皇制はこれを協力するであろう。この事実は、イタリアにおける最近の教皇制の歴史によって証明しうる。イタリア国が教皇領とローマを併合して一国を形成するに及んで(1870年)、教皇ピウス9世は、自ら好んでヴァチカン内の「幽閉所」に引退し、ローマ・カトリック信者が投票または公職就任のいずれによるにせよ、イタリア立憲君主国に協力することを禁じた。1929年、独裁者ムッソリーニとのラテラノ和約の締結に到るまでは、教皇はイタリア国に対する敵意をゆるめようとしなかったのである。ムッソリーニは、ピウス11世が新ヴァチカン国を立てて、外交使節を送受することを許可し、かつローマ・カトリック教をイタリア国の「唯一の宗教」として公認した。そのかわり、教皇制は、信者がこの全体主義国を支持することを許可した。教皇制は、また、スペインのフランコや、ポルトガルのサラザールの独裁政治をも支持した。また、1933年にはドイツのヒットラーとも妥協した。ローマ教会はその長期にわたる利益を保護するために、共産主義諸国家とも協力するであろうと思われる証拠がかなりある。ローマ教会は、ポーランドの信者たちに、その方がまだましだという理由で、共産党の候補者に投票することを勧めた。第二ヴァチカン公会議では、無神論の共産主義について、何も言われなかった。共産主義者たちが教皇を訊ねたことさえある。(E・ケァンズ著『基督教全史』p.581.)

*4:【現代プロテスタント教会の光と闇】に関しては以下の記事をご参照ください。