巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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二つのナラティブの間でーー福音派弁証家ハンク・ハングラフ氏の東方正教会転向に関しての所感

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有名な福音派弁証サイトであるChristian Research Institure(キリスト教リサーチ研究所)主幹で、長年、福音主義教会で弁証の働きをしてこられたハンク・ハングラフ師(Hank Hanegraaff;68歳)が、昨年、東方正教会に転向されました。

 


現在、彼は、奥さんのキャシーさん、息子さん二人と共に、ノース・カロライナ州にある聖ネクタリオス・ギリシャ正教会のメンバーになっています。ハンク師は、福音派の牧師であるジョン・マッカーサー師の長年の友人でもあり、彼の転向は、マッカーサー師にとっても、また、多くの福音主義クリスチャンにとっても大きな衝撃となっています。

 

ジョン・マッカーサー師は、正教会に転向したハンク師が「福音から逸脱した」ということを公に述べ、その理由として、東方正教会では「人は、、信仰と行ないを通して義とされる」(正教会の教義第13条)と考えており、それゆえ正教会のキリスト教は「偽りのキリスト教、つまり偽りの福音であり、人はそれに参入すべきではなく、それは呪われるべきである」と言っています。ココ

 

それに対し、下のビデオで、ハンク師がマッカーサー師に応答しています。

 

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まず、ハンク師は、「東方正教会のナラティブは、西方教会のそれとは違う」ということをおっしゃっていますが、これは確かにそうだと思います。

 

アウグスティヌスーペラギウス論争を経て、宗教改革期に争点となった「信仰 vs 行ない」という二分法および、それを巡ってのカトリックと新教側の相剋という共有された〈場〉を、東方正教会はシェアしていません。

 

ですから、西方系譜の諸教会では、そういった長い歴史的文脈の中で、(神学的に)faith vs workという二項対立の図式が出来上がっていると思いますが、どうも東方教会の世界ではそういう図式自体が(私たちが考えるような形では)そもそも存在していないようだ、ということを私も理解し始めています。

 

それでは、東方正教会の人々は「人は信仰 and 行ないによって救われる」と考えているのかというと、ハンク師が言うように、それはNoでもありYesでもあるのです。どういう事かと言いますと、ローマ書、エペソ書などの箇所では「人が救われるのは、行ないによるのではなく恵みにより信仰によるものである」とあるので、救いは「信仰のみ」。一方、ヤコブ書などを読むと、「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは死んだものである」とある。だから、両方を調和させると、答えはYesでもありNoでもあると、こういう風な理解になっている?(と思います。正教会のみなさん、もし不正確な説明になっていたらごめんなさい!*1.)

 

プロテスタント正統信仰の教理の中でも、ローマ書とヤコブ書の教理の調和化はなされています。ですから、西側のプロテスタントも、東の正教会も、それぞれが解釈学的な調和化を図っているのだと思いますが、おそらく両者は、そのアスペクトに若干違いがあるのではないかと想像しています。(⇒私のこの見解は間違っているかもしれませんし、思いっきり的が外れているのかもしれません。ですが、西側のクリスチャンと東側のクリスチャンそれぞれのコメントと読むたびに、私はなにか両者の間にずれを感じずにはいられないのです。)

 

また、ややこのテーマに関連するかと思いますが、そういった文脈で考えていくと、なぜ東方正教会には、新教における「カルヴィン主義 vs アルミニウス主義」という厳密な分極化がないのかも、なんとなく理解できる気がします。

 

私はここで分極化の良し悪しを言っているのではなく、東方の神学の流れの中では、厳密なる分極化を必然化せしめる歴史的要素が特になかった、もしくは彼らは解決のためのなにか別のアプローチをとってきた可能性があるかもしれないと思っています。今後、この分野でも考察を進めていけたらと思っています。

 

関連記事:

 

〔補足資料〕対ペラギウス論争における正教の態度について

 

ペラギウス主義、半ペラギウス主義に対して正教の立場からはどのように考えるのかについて、そもそもペラギウス論争は西方教会における論争であって東方には僅かな影響しか及ばなかったとされるが *2、以下、特にウラジーミル・ロースキイによるまとめに従って述べる。

 

東方は神の恩寵と人の自由意志という二つの契機を分離しない。神の恩寵と人の自由意志は共に現れ、一方が無ければ他方が理解されないというものである。ニュッサのグレゴリオス(ニッサのグリゴリイ)は、恩寵と自由意志は一つの現実の両極であるとしている*3

 

ロースキイによれば、ペラギウス主義は恩寵を「人間の意志の功徳に対して与えられる報い」としたが、ペラギウスの根本的な誤りは、恩寵の神秘を合理的なレベルに移し、恩寵と自由意志とを並列的な離れた二つの概念としてしまったところにあるとされる。

 

恩寵と自由意志とは、本来は一つの精神的秩序に属する現実として一致しなければならない。またアウグスティヌスについても、対ペラギウス論争において、ペラギウスと同様に合理的レベルに立つという誤りを犯し、問題解決を不可能にしたとされる*4

 

ヨハネス・カッシアヌスはこの論点において東方の代表者と看做される。ヨハネス・カッシアヌスはペラギウス主義を巡る論争において反ペラギウス的でありかつ反アウグスティヌス的であった。こうしたペラギウス、アウグスティヌスの両者いずれにも与しないヨハネス・カッシアヌスの態度は半ペラギウス主義と看做され、教説については異端宣告まで出された。しかし東方では伝統の証人として評価されている。

*1:追記です。東方正教会の方々が実際にどのように説明しているのかを調べてみました。ご関心のある方は以下の資料を参照ください。What Is the Eastern Orthodox View of Justification? - YouTubeIs salvation by faith alone or by works? - YouTubeSaint Paul and the "Works of the Law" - Orthodox Reformed Bridge

2019年8月28日 追記

 2020年5月追記

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*2:カリストス・ウェア p8, 2003

*3:ロースキイ p243 - p246,1986

*4:ロースキイ p243 - p246 1986