巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

過去の誤りから謙遜に学び、そこからまた進んでいきたい。

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前に進んでいくためにーーまっすぐ進んでいくためにーー、後ろを振り返りたい。(写真

 

ディスペンセーション主義神学体系を詳細研究し、その根本的誤りが明らかになっていく過程で、私の中にさまざまな問いが生まれてくるようになりました。

 

ジョン・ネルソン・ダービーによって1830年代に創始されたこの聖書解釈体系は、その後、伝道者ドワイト・ムーディーやサイラス・スコフィールドの『スタディー・バイブル』などを通してアメリカのファンダメンタリズム、福音派、聖霊派に拡がり、20世紀前半から中後半にかけて一世を風靡しました。しかし21世紀になった今、この神学体系(特に古典的/改訂ディスペンセーション主義)はアカデミズムの世界ではほぼ消滅し、一般のエヴァンジェリカル諸教会でも現在どんどん姿を消しつつあります。

 

それで、、、欧米圏ではもはや古典的/改訂ディスペンセーション主義は「過去の遺物」と化し、多くの人々は何事もなかったかのように、その遺物を後にし、次の段階へと進んでいっています(少なくとも私にはそう見えます)。でも私は未だにその遺物の前に一人たたずんでいて、プロテスタント教理史全体の中で、この20世紀現象をどう捉えればいいのか模索しています。

 

まず、なぜ私たちの福音主義教会の中にいる人々だけがこの誤った神学体系を受け入れることになってしまったのかという点で私はとまどいを覚えています。カトリックも、正教会も、コプト教会もその他伝統諸教会は皆、初めからこの体系を拒絶してきました。しかも私たちはこの誤解釈を受け入れただけでなく、それが「一世を風靡する」ほど全面的にこの教えを受容してきました。それは端っこにあったのではなく、私たちの中枢にまで入り込んでいたのです!

 

「ああ、あの時代はね、みんな、それが聖書的で正しいと信じていたんだ。ま、そういう時代だったってことさ。」ーーでも、みなさんは、それで納得できますか?

 

ほんの20-30年前まで、エヴァンジェリカル界の大勢が、非正統的な教えの影響下に置かれていたというこの事実は私を震撼させます。なぜ、(改革派やルーテル派等を除く)私たちのエヴァンジェリカルの大勢は、この誤りに気付くことができず、その他の伝統諸教会は、初めからその誤りに気付くことができていたのでしょうか?()この事実は、「聖書主義」を高唱する私たちを否が応にも謙遜にせしめないでしょうか。

 

私は、具体的にどういった教団・教派が(20世紀前半ー中半にかけ)この教えを受容していったのかについて詳しく調べました。そしてそれらの教団・教派の内に次のような共通する特徴を見い出しました。

①聖書を誤りのない言葉と信じている。「聖書のみ」の教理を重んじている。

②概して教父学に弱い。教理における教会伝統を軽んじる傾向がある。

 

そうすると、次のような問いが出されるかもしれません。「20世紀、『聖書のみ』をスローガンにしていた人々の大半は結局、誤った教理体系を受け入れ、しかもそれが誤りであることを見抜けなかった。それはなぜだろう?」

 

可能性1)そういった人々の多くは、何らかの形で「聖書のみ」という教理を誤解していた。

可能性2)「聖書のみ」というプロテスタンティズムの教理自体に何か根本的問題がある。*

 

しかし2)は却下され得るかもしれません。(「聖書のみ」の教理を堅持しつつ、尚かつ古典的/改訂ディスペンセーション主義を誤解釈として初めから拒絶していた福音主義クリスチャンも20世紀の時点で存在していたからです。)

 

しかしながら、エヴァンジェリカル界の大勢が誤解釈の体系をフィルタリングし損ない、それに飲み込まれてしまっていたという事実は依然として私たちの目の前にあります。私たちが一つのみからだであるのなら、そういった集団誤謬を許したDNAが、体質として自分たちの内に何らかの形で潜在しているのでしょうか。

 

ある人々はその体質を、プロテスタンティズムの土台の誤りの徴として受け取り、別の教会伝統へ転向していきます(実例1)。でも私は、逆に、宗教改革期に溯り、もっともっとその土台を検証していきたいという気持ちが与えられています。*1

 

「私たちの間にあった20世紀の誤り」。ーー私にとってこれは、前世紀に興隆・衰退した古典的/改訂ディスペンセーション主義という一神学の問題を超え、なぜこの教えがエヴァンジェリカル内だけに発生し得たのかというプロテスタントのあり方や存在の正誤そのものに触れる問題です。

 

「歴史から学ぶのは、人が決して歴史から学ぶことがないということだ。」とヘーゲルは言っていますが、過去の失敗に向き合い、そこから教訓や改善点を積極的に見い出していくことで、私たちは将来、同じ種類の過ちを犯すことから守られ、また、自分の立っている土台をもう一度見つめ直すことで新しい気づきと発見が与えられるのではないかと期待しています。

*1:2018年5月追加