巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会の「公同性」と「多様性」を私たちはどのように考えらればいいのだろう?(by ケヴィン・バウダー、中央バプテスト神学校)

large masonry home, multiple chimneys, opulent neo-Italian Renaissance in style

一つの大きな邸宅ーーこの中にはいくつ位の部屋があるんだろう?(写真

 

Kevin Bauder, Leithart and Wilson on the Church, 2016(拙訳)

 

少し前に、ピーター・ライトハートは「はたしてプロテスタンティズムに将来はあるのだろうか?」と人々に問いかけました。ダグラス・ウィルソンはピーターの提示する回答に異議を唱え、二人の間でディスカッションが始まりました。

 

そして、両者の意見交換の場から、教会の本質と境界線に関する、いくつかのすばらしい洞察が提供されています。私たちバプテスト派の信者は、時に互いに意見を違わせたり、別のテーマに関し意見の食い違いをみることがありますが、そういった意味でも私たちは両者の会話から何かを学ぶことができるのではないかと思います。

 

まずライトハートは「公同性」について次のように言っています。

 

 「『公同 "catholic"』と言う時、私が意味しているのはまず、それが普遍的であるということです。プロテスタンティズムは将来的に、諸公会(communions)の中の一つのグローバルな公同的公会の一部となり、自らをそれと認識するようになるのではないかと思います。

 

 プロテスタント諸教会はその他全ての諸教会と一つになり、自らの賜物を全体の福利のために分かち合い貢献するようになるでしょう。プロテスタンティズムの公同的未来というのは、諸教会というその他のファミリーとの一致という未来のことを意味しています。」

 

それに対し、ウィルソンは次のように言っています。

 

 「『キリスト教の精髄』の冒頭で、C・S・ルイスは、キリスト教信仰のことを、多くの部屋を持つ巨大な邸宅にたとえています。それぞれの ‟部屋” というのは、多様な公会(communions)のことを指しており、ルイスはローマ教会をその一つに含めています。ですが、これは幾人かの熱烈なプロテスタント教徒にとっては耐えがたい描写でしょう。『なぜ、ローマ教会にも一部屋があてがわれているのか?そんなことがあるはずはない』と。

 

 しかし、カトリック教義に精通しているローマ・カトリック教徒にとっても、この事実は同じ位、耐えがたいものに感じられるはずです。彼らは思うでしょう。『おおなぜ私たちは ‟邸宅全体” とみなされていないのか?そんなことがあるはずはない』と。」

 

ー終わりー

 

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