巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教派主義的キリスト教について(by ピーター・J・ライトハート)

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Peter J. Leithart(1959~)ウェストミンスター神学大修士、ケンブリッジ大Ph.D. セイント・アンドリュース大神学部元教授。米国長老教会(PCA)の長老としての按手を受ける。2011年6月、Federal Visionに関する見解のことで長老会から(異端の疑いで)審査を受ける。2011年10月、審査の結果、長老会は彼の完全無罪を確認。現在、Communion of Reformed Evangelical Churchesの教職者。彼の主唱する「宗教改革的公同主義 "Reformational catholicism"」は改革派陣営内外で論争を呼んでおり、マイケル・ホートン、ケヴィン・ヴァン・フーザー、ダグラス・ウィルソン等からのレスポンスがある。竜巻のような人物(かも)

 

Peter Leithart, The Americanism of denominationalism (拙訳)

 

教派主義的キリスト教(denominational Christianity)というのは、長老派、メソジスト派、ルーテル派、、さまざまな派に分割されていますが、これは、リベラルな秩序ーー現代のリベラルな政治秩序ーーに非常に良くフィットしています。

 

現代のリベラル秩序体制の主要テーマは、「いかなるイデオロギー、宗教、信仰であれ、その中のどれか一つが支配的になってはならない」というものです。ですから原則としての多元主義がリベラル政治秩序の中軸にあります。そして教派主義的キリスト教はそれとぴったり適合しています。

 

教派主義はーー特にアメリカにおいてはーー教会の非国教化(disestablishment)などではなく、リベラル秩序/多元主義的政治秩序内において教会が有している既定形態(established form)です。

 

それゆえに、教会(特にアメリカの教会)は、このリベラル秩序ーーマルチ教派主義というアメリカ体制、自由実践(Free Exercise Clause)というアメリカ体制、宗教の国教化はなく一つの信仰が独占することはないというアメリカ体制ーーに自らを順応させています。そして教派主義的キリスト教は実にこぎれいにこれにフィットしているのです。

 

アメリカのクリスチャンは教義的に一致しておらず、典礼的にも一致していませんが、一つだけ彼らを一致させるものがあります。それはアメリカ的信条に対する彼らのコミットメントです。そしてアメリカ的信条の中心にあるものは、〈寛容〉に関する見解であり、リベラルな多元主義に関する見解です。

 

ですから、皮肉なことに、彼らを結び合わせているただ一つのものが、アメリカ的信条に対する彼らのコミットメントであり、よりによってその信条が、「お前たちは分割されたままでなければならない」と彼らに要求しているのです。つまり、アメリカのクリスチャンたちを一致させているただ一つのものが、結局、彼らをして教派主義的であり続けなければならないよう強いているのです。

 

そしてこれにより、キリスト者の証言の預言的力がむしばまれています。なぜなら、互いに分裂し、リベラル体系にべったり順応し切っている教会には、ーーそういった体制に対し深く根本的に挑みかけるーー預言的 ‟声” が不在だからです。