巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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恩寵により、はたして自然理性によって得られるよりも高度の神認識が得られるのだろうか?ーートマス・アクィナスの探求②【啓示神学の認識論的基礎づけの意味】

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出典

「私の神よ、私があなたを忘れても、あなたは私を忘れないでください。私があなたを見捨てても、あなたは私を見捨てないでください。私があなたから離れても、あなたは私から離れないでください。

私が逃げだしても呼びもどし、反抗しても引き寄せ、倒れても起きあがらせてください。

私の神、主よ、お願いいたします。いかなるむなしい考えによっても
あなたから遠ざかることのない目覚めた心を。

いかなるよこしまな意向によってもゆがめられることのないまっすぐな心を。
いかなる逆境にもめげず勇敢に立ち向かう強い心を。
いかなる卑しい情欲によっても打ち負かされることのない自由な心を
主よ、私にお授けください。

主よ、お願いいたします。
あなたを求める意志を、あなたを見いだす希望を、信仰をもってあなたを待ち望む堅忍を、
そして、ついにあなたを所有できる確信を、主よ、この私にお与えください。」トマス・アクィナスの祈り(出典

 

目次

 

出典:トマス・アクィナス著『神学大全 II』(山田昌訳)、第12問第12ー13項, p.86-92.

 

〔問い〕恩寵により、自然理性によって得られるよりも高度の神認識が得られるか?

 

この項のあらまし(山田昌)

 

前項では、自然理性によって得られる神の認識について述べられたが、本項では、超自然的恩寵*1すなわち、啓示の光のもとに得られる神の認識について述べられる。

 

前項が自然神学の認識論的基礎づけの意味を含んだのに対して、本項は啓示神学の認識論的基礎づけの意味を含む。恩寵の、神認識に対する関係は、自然理性の場合に比して、多面的であり且つ複雑であることを、本項の考察を通して教えられるのである。

 

本文

 

【異論①】*2

恩寵により、自然理性によって得られるよりも高度の神知識が得られることはないと思われる。そのわけは、ディオニシウスは、『神秘神学*3』において、現世において、より善く神と一致している者は、まったく知られざる者としての神に一致しているという。

 

彼はこのことを、モーセについても言っている。しかもモーセは、恩寵の認識において、一種の卓越性を獲得したのである。しかるに、神について、その「何であるか」を知ることなしに神と結合すること、これは自然理性によっても起こることである。ゆえに恩寵によって、自然理性によるよりも十分に、神がわれわれに知られるということはない。

 

【異論②】

さらに、自然理性によって神的なるものの認識にまで到達しうるためには表象によらなければならないが、恩寵の認識による場合も同様である。じっさいディオニシウスは、『天上位階論』第1章*4において、「神的光条がわれわれを照らしうるためには、それは色とりどりの聖なる覆いに包まれなければならない」と言っている。それゆえわれわれは恩寵によって、自然理性による場合よりも十分に神を認識するということはない。

 

【異論③】

さらに、われわれの知性は信仰の恩寵によって神に密着する。しかるに信仰は認識であるとは思われない。じっさいグレゴリウスは『教話*5』において、見られざるものについては「信仰があり、知識はない」と言っている。ゆえに信仰によってわれわれに、何か神についての、よりすぐれた認識が附け加わることはない。*6

 

【しかし!】

しかし反対に、使徒は『コリント前書』第2章10節において、「神はその霊によってわれわれに啓示してくださった」と言っている。啓示されたのはすなわち、「この世の支配者たちが誰一人知らなかったこと」(同章8節)である。「この世の支配者」とは、『註解*7』によれば、「哲学者」たちのことである。

 

【だから私は答えて言う!】

恩寵による場合、われわれは神について、自然理性によるよりも完全なる認識を得る。このことは、以下に述べるところから明らかである。われわれが自然理性によって得る認識は、二つのものを必要とする。すなわち、感覚から受け取られた表象と、自然本性的なる可知的光*8(natural intelligible light)とである。この光の力によってわれわれは、表象から可知的概念を抽象する。

 

ところでこのいずれのものに関しても、人間の認識は恩寵の啓示によって助けられるのである。すなわち、知性の自然本性的な光は、無償の光*9の注入によって強化される。また時として、自然本性的に可感的なるものから受け取られる表象よりも、より多く神的なことがらを表現する表象が、人間の表象作用のうちに、神によって形成されることがある。

 

これは、預言者の直観(visionibus, visions)の場合においてあきらかである*10。また時としては、さらにまた何らかの神的なことがらを表現するために、何らかの可感的なるものが神によって形成され、のみならずそのような声が形成されることもある*11。バプテスマの際に、聖霊が鳩の形をして見られ、「これこそは、わが愛する子である」という御父の声が聞こえた(マタイ3:17)のはその例である。*12

 

【異論①に対する答え】

それゆえ①について言わなければならない。恩寵の啓示によってもわれわれは、現世においては、神についてその「何であるか」を認識せず、その意味でわれわれは、いわば「知られざるもの」としての神に結びついているのであるが、しかしそれにしても、より多くのより卓(すぐ)れた神の結果を示され、また神が三位にして一体であるというような、自然理性によっては到達し得ないことがらを、神の啓示によって神に帰するようになるという意味において*13、恩寵の啓示のおかげで、より一層豊かに神を認識するのである。

 

【異論②に対する答え】

②について言わなければならない。自然の秩序に従って感覚から受け取られたものにせよ、神によって表象作用のうちに形成されたものにせよ、人間のうちに存する可知的光が強力であればあるほど、表象からいっそう卓れた知的認識が得られる。それゆえ啓示を通して神の光が注がれることによって、表象からいっそう豊かな認識が得られるのである。

 

【異論③に対する答え】

③について言わなければならない。信仰は、知性がそれによって可認識的なるもの(認識可能なもの;cognoscibile, knowable)に限定されるかぎりにおいては、一種の認識である。しかし、この一つのものへの限定は、信ずる者自身がそれを直接に見たことから生ずるのではなくて、彼の信じている者が直接に見たことから生ずる。

 

それゆえ信仰は、直観を欠くかぎりにおいて、確実なる知としての認識の性格を欠いている*14。実際、確実なる知(scientia)は、第一原理の直観(visionem)と把握(intellectum)とによって、知性を一つのものへと限定するのである。*15

 

ー終わりー

*1:〔管理人注〕訳者の山田昌氏はラテン語gratiaを「恩寵」と訳しておられますが、神学書では通常、「自然と恩寵」という風に、gratiaが「恩寵」と訳されているようなので、本ブログではこのラテン語の訳を「恩寵」に統一することにしました。あしからずご了承ください。

*2:〔管理人注〕【異論①】、【しかし!】【異論に対する答】等の小見出しは山田昌氏の日本語訳にはありません。これは、英訳のObjection1,On the contrary, Reply to Objection 1etc..の慣例に倣い、読みやすさを考え私個人が付加したものです。

*3:第1章、ギリシア教父集3巻p.1001.

*4:ギリシア教父集3巻p.121.

*5:第26.ラテン教父集76巻p.1202.

*6:「信仰」fidesと「知識」cognitioとの関係については、古来二つの対立する考えがある。一つは、信仰は低次の知識、ないし知識の代用物であり、結局その内容は高次の知識のうちに解消されるという考えであり、グノーシス派はかかる立場を代表する。一つは、これと正反対に、信仰はこのような知識とは全然無関係であり、むしろこのような知識を否定して、絶対的に神に帰依する、恩寵による神に対する人間のまったく新しい一つの在り方であると主張する。テルトゥリアヌス(160頃ー230頃)は、この立場を代表する。この異論もそのような立場を主張していると考えられる。

*7:アンセルムス・ラウドゥネンシス(1117歿)『行間註解』。ラテン教父集30巻722.

*8:「自然本性的な可知的光」lumen naturale intelligibileとは、「能動知性」intellectus agensのことである。それは表象に向かい、表象から「可知的形象」species intelligibilisを抽象する。能動知性の抽象作用については、第85問1、2項において論じられる。

*9:「無償の光」lumen gratuitumとは、純粋に神の意志に基づいて、神の恵みとして、自然理性の光の上に増し加えられる光である。「恩恵の光」lumen gratiaeともいう。本問第5項において、神の本質を見るために、かかる光の与えられることの必要性が、既に論じられた。ただしここで「無償の光」と言われるものは、神の本質を見る「栄光の光」ではないが、既に現世において信仰をもって生きる人々のうちに注がれている狭義の(すなわち「栄光の光」と区別される意味での)「恩恵の光」を意味している。なぜなら本項では、特に「現世における人間」が問題であるからである。

*10:預言者の直観の場合、神的なことがらの形象が神から、感覚と媒介とせずに直接的にその表象に注入されることがある。預言者の直観における神からの恩寵のはたらきについては、第2・2部173問2項において論じられる。

*11:神の恩寵は、啓示を受けた者の精神に働きのみならず、客観的実在の世界に、神的なことがらを表現する事物、ないし現象を出現せしめることがある。この問題については、第2・2部173問2項において論じられる。

*12:イエスの受洗の際に、聖霊が可視的なる形であらわれ、御父の声が聞かれた。このことの意味については、第3部39問7-8項において論じられる。

*13:「神は三位一体である」Deus est trinus et unusということは、自然理性によっては知り得ず、啓示によってはじめて知り得る。しかし三位一体なる神の真相は、現世のわれわれには知られない。われわれはそれを「玄義」mysteriumとして信仰によって保持するのである。三位一体と理性との関係については、第32問1項「神のペルソナの三位一体は自然理性によって認識されうるか」において論じられる。

*14:「確実な知」scientiaとは、知性によって自明的に直観される「第一原理」prima principiaから必然的に帰結してくる知識の体系であり、それは客観的にかつ必然的に真である。これに対し「意見」opinioは、主観的に真と思われていることがらであって、scientiaのような客観的確実性を持たない。「信仰」fidesはscientiaとopinioとの中間に位する認識であって、信ずる人自身が自ら直観したことを信ずるのではなく、誰か直観した人(預言者、使徒、キリスト)の認識を真実として、同意をもって受け取るのであるから、scientiaとしての性格を欠いている。しかしそれは第一真理にかかわるものであるから、単なる主観的なopinioでもない。信仰と知との関係については、第2・2部1問5項において論じられる。

*15:「知性を一つのものへと限定する」determinare intellectum ad unumとは、知性をしてあれかこれかと判断を動揺させることなく、一つの判断へと必然的に限定することである。