巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

現世においてわれわれは神を、自然理性によって認識することができるのだろうか?ーー トマス・アクィナスの探求①【自然神学の可能性と限界と意味】

Related image

彼(トマス)は大柄で、よろよろして、無口で、すこしぼんやりした人であった。ケルン大学の同級生たちが彼のことを、「だんまり牛」だと言ってからかったとき、師のアルベルトゥスは、「いつかはこの牛の啼声が全世界に満ちるだろう」と言った。(E・ケァンズ、『基督教全史』p.318)

 

目次

 

 

出典:トマス・アクィナス著『神学大全 II』(山田昌訳)、第12問第12ー13項, p.80-86.

 

〔問い〕われわれは神を現世において自然理性によって認識することができるか?

 

この項のあらまし(山田昌)

 

前項においては、現世に生きる人間には、神をその本質によって直観することのできないことが証明されたのであるが、本項においては、現世において人間は神について何らかの認識を得ることができるか(本質を見ることはできないにしても)が問われる。

 

もし認識できるとしたら、その認識の根源は、理性か啓示かであろう。この項ではまず、自然理性によって神について何らかのことを知りうるかが問われる。

 

ある人々は、自然理性によっては神について全然何事も知りえないと主張するが、トマスによれば、自然理性は被造物の考察を通じて、その第一原因としての神が「存在する」という認識にまでは到達することができる。

 

また、神の本質は直観できないにしても、被造物の本質的性格を「超越する方向に否定していく」という仕方で、「否定の道」via negativaと「卓越性の道」via eminentiaeとによって、神の本質についての直接知ではないにしても、被造物の認識を媒介とする間接知を得ることはできる。

 

かかる自然理性にもとづく神の知は、これまで第二問の神の存在証明から始めて、それによって得られた「第一原因」としての神の諸性格を手がかりとして第3問から第11問に到るまで、すでに試みられてきたところであり、本項は、これまでの神探求の試みの認識論的基礎づけと見ることができよう。

 

また、もし自然理性による神認識の体系を「自然神学」theologia naturalisと名づけるとするならば、本項はそのような自然神学の可能性と限界と意味とについての基本的原理的洞察を含んでいると言えよう。

 

本文

 

【異論①】*1

われわれは、神を現世においては自然理性によって認識することはできないと思われる。そのわけは、ボエティウスは、『哲学の慰め*2』において、「理性は単純形相を把えることができない」と言っている。しかるに神は、既に示されたように〔三問七項〕、最大度に単純なる形相である。ゆえに自然理性は、神の認識に到達することができない。

 

【異論②】

さらに、『心理学』第3巻*3において言われているように、表象なしの自然理性によっては、魂は何も認識しない。しかるに神は非物体的であるから、神の表象なるものは、われわれのうちに存在しえない。ゆえに神は、自然認識をもってしては、われわれに認識されることができない。

 

【異論③】

さらに、自然理性による認識は、自然本性がそうであるように、善人にも悪人にも共通である。しかるに神の認識は、ただ善人にのみ適合する。じっさいアウグスティヌスは、『三位一体論』第1巻*4において、「人間精神の眼は、もしそれが義(ただ)しい信仰によって浄められないならば、かくも崇高な光のうちに眼差しを向けていることができない」と言っている。ゆえに神は自然理性によって認識されることができない。

 

【しかし!】

『ロマ書』第1章19節には、「神について知られることは、彼らに明らかである」と言われている。これはつまり、「神について、自然理性によって認識されうることは」という意味である。

 

【だから私は答えて言う!】

われわれの自然本性的認識は、感覚にその端緒をとる*5。ゆえにわれわれの自然本性的認識は、可感的なるものによってみちびかれうる範囲のものにしか及ぶことができない。しかるに可感的なるものよりしては、われわれの知性は、神の本質を見る境地にまで到達することができない。可感的被造物は、その原因の力に相応しない神の結果である*6。それゆえ可感的なるものの認識よりしては、神の全能力を認識することは不可能であり、したがってまた、その本質を見ることもできないのである。

 

しかしながら、神の結果は、その原因に依存するものであるから、われわれは結果よりして神について、それが「存在する」ということを認識するところまではみちびかれることができる*7。また神について、それが、原因されたすべてのものを超える万物の第一原因たるかぎりにおいて、必然的に神に適合することがらを認識するところまではみちびかれることができる。

 

それゆえわれわれは神について、神の被造物に対する関係、すなわち万物の原因であるという関係を認識するとともに、また被造物と神との相違、すなわち神は神によって原因されたもののいずれでもないこと*8、またそれらが神から除かれるのは、神の欠陥によるのではなく、かえって神がそれらを超越しているからであるということを認識するのである*9

 

【異論①に対する答え】

それゆえ①については言わなければならない。理性は単純形相*10について、それが「何であるか」を知るところまでは到達することができない。しかしそれが「存在する」ことを知る程度までは認識することができるのである。

 

【異論②に対する答え】

②については言わなければならない。神は、その結果の表象を通じ、自然認識によって認識される。*11

 

【異論③に対する答え】

③については言わなければならない。本質による神の認識は、恩寵(grace)によるものであるから、善人にしか適合しない。しかし自然理性による神の認識は、善人にも悪人にも適合しうる。ゆえにアウグスティヌスは『再論*12』において、「私はかつて祈りのなかで、〈神よ、あなたはただ浄き者のみが、真実を知ることを欲し給う〉と言ったが、今はあれを認めない。なぜならば、多くの浄くない者たちも、多くの真実を知ることができると反問されうるからである」というのである。ここに「多くの真実」とはすなわち、自然理性によって知りうる真実のことである。

 

ー終わりー

*1:〔管理人注〕【異論①】、【しかし!】【異論に対する答】等の小見出しは山田昌氏の日本語訳にはありません。これは、英訳のObjection1,On the contrary, Reply to Objection 1etc..の慣例に倣い、読みやすさを考え私個人が付加したものです。

*2:第5巻散文第4.ラテン教父集63巻p849.

*3:第7章p431a16-17.トマス『註解』第12講p770-772.人間の場合には、知性は直接に可知的対象を認識するのではなく、感覚を通して、まず可感的対象が把えられ、可感的形象が「表象」phantasmaに統合され、表象に向かう知性がそこから「可知的形象」species intelligibilisを抽象するという仕方で知性認識が実現する。ゆえに表象なしには、知性は単独には、何も認識することができない。知性と表象との関係については、第84問7項「知性は自分自身を表象に向けることなしに、自分のもとに有している可知的形象によって、現実に知性認識することができるか」、第85問1項「われわれの知性は、物体的質料的事物を、表象からの抽象によって認識するか」において論じられる。

*4:第2章4節。ラテン教父集42巻p822.異論の引用では、「信仰の義によって浄められないならば」nisi per iustitiam fidei emundeturとあるが、原文では「信仰の義によって養われ強められないならば」nisi per iustitiam fidei nutrita vegeteturとなっている。

*5:人間の自然認識の端緒は感覚である。この点、トマスは純然たつ経験主義者である。しかし、すべての認識は感覚認識にすぎないと主張する感覚論者ではない。感覚の所与のうちに含まれている普遍的可知的形相を知性はそこから抽象し、かくして感覚認識の個別性を超えた普遍的知性的認識にまで上昇しうる可能性をトマスは認めるからである。それにしても、自然認識の段階において知性が及びうるのは、あくまでも可感的なるものの所与によって導かれうる範囲であり、この範囲を超えることはできない。知性認識と感覚との関係については、第84問6項「知性認識は、可感的事物から受け取られうるか」において論じられる。

*6:すべての被造物は、神から「有限の存在」esse finitumを受けている。ゆえにすべての被造物は、存在そのものなる神を「存在原因」causa essendiとする神の結果である。そして、存在する限りにおいて、存在そのものなる神との何らかの類似性を有している(4問3項)。しかしながら、存在そのものなる神の「無限存在」esse infinitumと、被造物の有限存在との間には無限の隔たりがあり、その意味では、いかなる被造物も「原因の力に相応しない結果」effectus virtutem causae non adaequantesなのである。それゆえ、いかなる結果の考察よりしても、その原因たる神の本質の認識までは到達することができない。

*7:つまり、神の「何であるか」quid estは知られないが、神という名で呼ばれるべきものが「存在すること」an estを知ることはできる。ここに、可感的世界の考察から出発するア・ポステリオリな神存在論証の成立する根拠がある。これについては、第2問においてすでに論じられた。

*8:神は、神によって原因されたもののいずれでもないこと。この点に注目して、被造的世界の存在において認められるあらゆる有限性を神から取り除くという仕方で、神の概念に近づいてゆく方法は「否定の道」via negativaであり、かかる方法によって成り立つのは「否定神学」theologia negativaである。

*9:被造物の有限性が神から取り除かれるのは、神の欠陥のゆえではなく、かえってその無限の完全性のゆえである。この点に注目して、被造的世界に見い出されるさまざまの完全性、すなわち、存在、生命、知恵、善などを最高度にして、これを神に帰属させ、かかる仕方で神の概念に近づいてゆく方法は「完全性の道」via perfectionisと言われる。第3問から第11問に到るまで、トマスはこの二つの道を交互に使用しながら、より具体的なる神の概念に近づいていったのである。

*10:ここで「単純形相」forma simplexというのは、質料と複合されずに形相だけで自存する形相を指す。ゆえに神のみならず、天使もそのうちに含まれる。天使についても(神はもちろんのこと)、われわれはその「何であるか」(本質)を知ることができない。ただそれが可感的世界に及ぼす作用からして、かかるものが「存在する」ということは知ることができるのである。天使の作用を媒介とする物体としての関係、場所との関係については、第51、52、53問において論じられる。

*11:かかる仕方で知られるのは、もちろん、神が存在するという認識であって、その本質の認識ではない。結果の「表象」phantasmataを通じて直接にわれわれに知られるのは、結果の本質である。しかし結果を通して原因の存在が推知されるためには、まずその結果が「存在する」ことが知られていなければならない。ゆえに表象は単に事物の本質のみならず、その「存在」をも何らかの仕方で知性に伝達すると考えられる。

*12:第1巻4章2節。ラテン教父集32巻p.589.アウグスティヌスは427年、73歳の時、それまでにあらわした多くの著作について註記し、訂正すべき箇所を訂正する『再論』Retractationes2巻を書いた。これは彼が若い時(386年、32歳)書いた『ソリロクィア』第1巻1章2節の箇所についての訂正である。トマスは、アウグスティヌスの引用をもってする異論に対して、アウグスティヌスの引用をもって答え、のみならず、アウグスティヌス自身の、いわば一種の自己批判のことばをもって答えている。それだけ、異論に対する答えとしての力は強くなるわけである。