巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

〈彼ら〉は私たちにとっての "誰" でしょうか。

「今日、自分は原理主義の反対者だと言えば、社会において広範な賛助を得るだろう。」

ヴェルナー・フート『原理主義ーー確かさへの逃避』、p.42.

 

目次

 

私たちは〈彼ら〉のような原理主義者たちとは違う!?

 

現代はポストモダンの落とし子である「分衆の時代」に突入し、そこでは《イメージ》というものが巨大な力を持つまさに「イメージの時代」である、ということを宇田進師が述べておられます。そしてメディアによって操作されたイメージが、恐るべき《魔語》となる可能性があるということを。参照

 

近年、知的なリベラル派の牧師や神学者たちの筆による「アメリカ原理主義」「福音派」「ファンダメンタリスト」批判の著書が、大手出版社から発売され、世間の人々に大受けしています。(そして実際、彼らの指摘のある部分は本当に的を射ていると思います。)

 

また、「"神のためだ"と何でもごり押しする恐ろしい戦闘的姿勢を持つ狂信集団」としての《イメージ化》がマスコミ主導で強力に進められていることも相まって参照、ますますファンダメンタリズム的な傾向を持つ聖書信仰のクリスチャンたちは危険視されるようになってきています。

 

そうすると、私たちの中で次のような自己防衛欲求が生じてくるのではないかと思います。--私は〈彼ら〉のような熱狂的信者とは違う。〈彼ら〉は非常識な信仰を持っているけど、私のそれは穏健で健全なものだ。だから間違っても〈彼ら〉なんかと一緒にされたくない。みなさま、私は(皆さまが危険視しているような類の)原理主義者なんかではありませんよ。私も一応同じクリスチャンですけど、〈彼ら〉のような原理主義には反対しているんです。(だから私は危険なタイプのクリスチャンじゃないってこと分かってくださいね!)

 

でも、、リベラル派の牧師の書いた一般人向けの「ファンダメンタリスト批判」を読む時、私の中で時に、耐えがたいほどの寂寥感が襲ってきます。何というか、彼らは世間の人に有益な情報提供をするというスタンスを取りつつ、その実、世間の人と一緒になって(=同じ土台、同じチーム、同じユニフォーム、そして〈私たち〉という共有された主語で)、社会の危険分子である〈彼ら〉、つまりファンダメンタリストという「よそ者/異物」を糾弾している印象がぬぐえないのです。

 

でも本来は、〈彼ら〉は〈私たち〉の一部なのではないでしょうか?たといどんなに彼らの神学及びその神学から導き出されるアクションが問題を含むものであったとしても、これらの人々はイエス・キリストを救い主と信じ、聖書を誤りなき神の言葉と信じる私たちの兄弟であり、姉妹なのではないでしょうか?彼らは私たちの内側にいる同胞なのではないでしょうか?

 

そして彼らが私たちの内側の人々であるならば、世間の人々に向かって〈彼ら〉の危険性を声高に叫び、ーー"まともな"自分と"まともでない" 彼らの差異を秘かにアピールしつつーー〈彼ら〉をコーナーに追いつめるのではなく、むしろ愛をもって彼らに直接、教義の誤りを伝える、、それが本来の同胞愛ではないでしょうか。

 

スケープゴート探し

 

また、リベラル主義の人々が時として、自らの選ぶスケープゴートたちにあらゆる咎を負わせるという形をとりつつ、--本来キリスト者として自分が負うべき「十字架のつまずき」を巧妙に〈彼ら〉の上に転嫁しようとしている、その狡猾さを私たちは見抜かなければならないと思います。

 

戦時中、国体におもねった日本基督教団の指導者たちが見つけ出したスケープゴートが、中田重治率いる"熱狂的な"ホーリネス系の集団でした。中田重治はムーディー聖書学院で古典的ディスペンセーション主義解釈法を学び、帰国後、その神学に基づいた特殊な再臨信仰を説き始めました。

 

また彼は、1932年に行なった「聖書より見たる日本」という講演の中で、日本人はイスラエル人の子孫であり、黙示録7章にある「一人の御使の、活ける神の印を持ちて日の出づる方より登るを見たり」とは日本を指しているという特異な解釈をしています(参照)。

 

ですから、中田重治らの神学が健全であったかというと、必ずしもそうではなかったと思います。それでは、彼らは、神学がややおかしいので、私たちの〈外〉にいる他者なのでしょうか?戦中の日本基督教団はそれに「然り」と答えました。

 

そして反国体的という理由で、ホーリネス系の人々の一斉検挙と投獄があった際にも、日基の指導者たちは、「極力災いが自分たちに及ぶことを避けて、彼らと自分たちとの違いを強調」しました。「何人かの幹部は、当局の処置を英断として歓迎したほどである。」*1

 

この時期の日基の指導者の態度について、キリスト教史家である中村敏氏は次のように記しています。

 

「たとえば、〔日本基督〕教団の第四部主事菅谷仁は、次のように発言している。

 

『この度の国家としての御処置は実に大英断であって、自分ながら喜んでいる次第であります。彼らの熱狂的信仰は、我々教団では手の下しようもないくらい気違いじみているため、これを御当局において処断してくださったことは、教団にとり幸いであった。』*2

 

また、教団の山梨支教区長小野善太郎は、こう発言している。

 

『大局的見地から言えば、こうした不純なものを除去することによって日基教団のいかなるものかが一段に認められて、今後の運営上かえって好結果が得られるのではないかと考え、当局の措置に感謝している。』*3

 

いかに時局に迎合した発言とはいえ、同じ教団に属する群れへの同情のかけらも感じられない。」*4

 

おわりに

 

社会の中における危険分子として〈彼ら〉には現在、"恐るべきイメージ"が着せられています。私たちは〈彼ら〉の持つ誤った神学や考えや行動とははっきり一線を引きつつ、尚且つ、〈彼ら〉をスケープゴート化しようとする傾向の強いリベラル主義の無情さ/狡猾さともはっきり一線を引かなければならないと思います。

 

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ」(1コリ12:26a)。どうか私たちが、偽りのない愛といつくしみの心の内に、教理的一致に向かい互いに最善を尽くしていくことができますように。そしてそれによりキリストの栄光があがめられますように。

 

ー終わりー

 

*1:中村敏著『日本キリスト教宣教史ーーザビエル以前から今日まで』、いのちのことば社、p.259-260.

*2:『ホーリネス・バンドの軌跡』662-663.

*3:同著,p.663.

*4:中村敏著『日本キリスト教宣教史ーーザビエル以前から今日まで』、いのちのことば社、p.260.