巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

日曜日の「字義性」と、平日の「メタファー」の相剋をどうすればいい?ーー大学生のみなさんへの応援レター

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目次

 

はじめに

 

私はクリスチャン・ホーム、ーーそれも、古典的もしくは改訂ディスペンセーション主義の教会の中で育ち、現在、大学に入学する位の年齢になっている学生の皆さんたちのことを想っています。

 

私は大学の時、世俗的・リベラル派的アカデミズムの世界と、ファンダメンタリズム系の信仰世界との間でひどく葛藤を覚え、相反するこの二つの世界の間で時に頭が二つに張り裂けそうな思いがしていました。

 

前の記事でも触れましたが、聖書信仰のクリスチャンとして、自分はソシュールの構造言語学やチョムスキーの生成文法、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』が表象する世界の見方、ポスコロ理論などをどのように捉えていけばいいのか一人悶々と悩んでいました。そういった背景があるために、尚一層のこと、私はクリスチャンの大学生の皆さんに特別の思い入れがあります。

 

一つの懸念

 

さて、私の心に一つの懸念があります。それは何かというと、古典的/改訂ディスペンセーション主義を奉じる諸教会で育ってきた大学生の皆さんの何人かがきっと現在、アカデミックな世界の中でいろいろと葛藤し悩んでおられるだろうなあという憂心です。

 

古典的/改訂ディスペンセーション主義およびそれを信奉する人々は、20世紀前半、モダニスト・ファンダメタリスト論争(1923年-1924年)にあって、聖書の主要教理を守るために尊く用いられました。ですから、聖書を誤りなき神のことばと信じる私たち信仰者は皆、20世紀前半におけるディスペンセーション主義の方々の尽力に感謝すべきだと思います。

 

また、この論争から直接的・間接的に生み出されてきた宣教団体や教育機関の多くも、古典的/改訂ディスペンセーション主義を信奉する方々によって創設されてきました。(例:キャンパス・クルセード・フォー・クライスト〔ビル・ブライト〕、フォーカス・オン・ザ・ファミリー〔ジェームズ・ドブソン〕、リバティー大学〔ジェリー・ファルウェル〕、ビリー・グラハム、アドリアン・ロジャーズ、チャールズ・スタンリー等)。また、私が個人的に知っている古典的/改訂ディスペンセーション主義の兄弟姉妹はどなたも皆、本当にすばらしい信仰の持ち主です。

 

リベラリズムの脅威に対し、19世紀から20世紀にかけ、古典的/改訂ディスペンセーション主義は福音主義信仰を守るべく全力を尽くしてきました。ですが、私の予想では、この体系で育ってこられた学生の皆さんは、何らかの形で現在、かなりの葛藤(<信仰の動揺、クライシス)を覚えているのではないかと思うのです。その理由を以下にご説明したいと思います。

 

世界観の相剋

 

まず、古典的/改訂ディスペンセーション主義が最盛期だった時期と、現在では、この世の風潮が全然違ってきています。私たちは現在、ポスト近代の世界にいて、その中でキリストの証し人として生きようとしています。そして現在、アカデミズムの支配的風潮はポストモダニズムのそれであり、リテラシー理論、文学批評、言語学、構造主義、ポスト構造主義等の理解・咀嚼も、それに深く関わっています。

 

また現在は、さまざまな世界観の対峙の時代です。そしてイエス・キリストを救い主として信じる私たちキリスト者の世界観は競合する雑多な世界観の挑戦を受けています。大学生の皆さんの知的葛藤や混乱も、そういった異種の世界観からの挑戦に起因する部分が多いと思います。

 

「時代精神に抵抗すること」と、「時代の子である」という二つの事実

 

私たちは時代を超越した聖書の真理に立っていますが、それと同時にまた、時代の子でもあります。そして、それを認識した上で、私たちはキリスト者としてこの世の時代精神に抵抗していかなければならないと思います。その事についてフランシス・シェーファーは次のように言っています。

 

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「キリスト者はこの世の時代精神に抵抗しなければならない。しかし、われわれが『時代精神に抵抗する』と言う時に是非とも覚えておかねばならないことがある。それは、この世の時代精神が常に同じ形態を帯びているわけではないという事だ。だから、キリスト者は、自らの置かれている世代において今まさに〈かたち〉を成している時代精神、これに抵抗しなければならないのである。そしてもし彼がそうしないのなら、そういう人は実際には全く時代精神に抵抗などしていない。」(引用元

 

私たちの世代において今まさに〈かたち〉を成している時代精神に抵抗するーーそのためには、私たちはそれにふさわしい武具を身に着けなければならないと思います。

 

そしてわたくしの私見では、古典的/改訂ディスペンセーション主義型の武具では、もはや濁流のように押し迫ってくるこの世の時代精神に抵抗することはきわめて困難であり、特にそれは若い世代のクリスチャンの周辺において尚一層差し迫った問題だと思います。

 

それは譬えて言うなら、前進直行のみの機能を持つ車で、複雑に曲がりくねった山道を走ろうとするような試みだと言えるかもしれません。この車は、単純にまっすぐ伸びた幹線道路では有用かもしれませんが、ポストモダンの繊細で入り組んだ道を走るにはあまりに機能が固定されすぎており、さっと右に曲がったり左にカーブしたりする柔軟性と機敏性に欠けているのです。

 

(そういった事を敏感に悟ったダラス神学校は20世紀後半にいち早く古典的/改訂ディスペンセーション主義を捨て、より穏健的な「漸進的ディスペンセーション主義」に切り替えました。グレース神学校、タルボット神学校もそれに続き、その結果、現在、米国の正規の神学校で古典的/改訂ディスペンセーション主義を採用している学校はほぼゼロの状態になっています。)

 

「字義性」と大学生活ーー花子さんのケース

 

例えば、古典的/改訂ディスペンセーション主義の言語観/解釈を表すものとして「字義性」という独特の思想があります。これは、世俗のポストモダン的常識から大きく外れていることは勿論のこと、歴史的キリスト教の "literal" 観とも異なる、ディスペンセーション主義特有の専門用語です。

 

ここに花子さんという学生さんがいます。仮に花子さんが古典的/改訂ディスペンセーション主義の教会で幼い頃から常に「"字義的" 解釈="聖書的" 解釈なんですよ。」という教えを受けてきたとします。さて今年、彼女は○○大学の文学部に入学しました。

 

花子さんが内面の信仰部分で、ディスペンセーション主義的 "字義性" の言語観および世界観を保持しつつ、且つ、4年間、この文学部でまともにサバイバルしようとするなら、以下に挙げる3つの可能性(or それ以上の)が考えられます。

 

可能性1)主日朝の教会での「字義的」世界と、月~金までのアカデミックな言語学的世界の完全なる住み分け。両者は決して混じり合わないし、関係を持たず、互いに没交渉。主日の "字義性" は "字義性"(J・N・ダービー)、平日の "概念メタファー" は "概念メタファー"(G・レイコフ)として割り切る。⇒信仰世界と知的世界の乖離。⇒それによって精神のバランスを保とうとする。⇒(霊的)分裂症気味のクリスチャン生活。

 

可能性2)頭脳明晰でかつ無神論者の教授Aが、講義の中で、(花子さんの)母教会の人々の信じている「字義的解釈」のことを「狂信的アメリカ原理主義解釈」と言って物笑いの種にしていた。クラスの級友たちも皆笑っている。顔が真っ赤になり、恥ずかしさの余りどこかに逃げ出したくなった。⇒自分の教会や信仰のことを恥じるようになる。親の信仰が馬鹿げて見える。⇒次第に教会から遠ざかる。⇒社会人になると同時に信仰から離れる。

 

可能性3)大学を支配している知的に洗練されたヒューマニズムと、「字義的解釈」を重んじる母教会信仰との間に、超えることのできない隔たりと断絶を感じる。日曜だけの「字義性」信仰という生き方は妥協だと思う。私はクリスチャンとして一貫性のある生き方がしたい。⇒古典的/改訂ディスペンセーション主義を基盤にし、且つ「字義的解釈」を重んじるキリスト教団体の熱心なメンバーになる。⇒ファンダメンタリズムへの接近。宣教の文脈化への困難。一般社会との隔絶傾向。

 

キリスト教世界観の中における言語観を求めて

 

ポスト近代の世界ーー特にアカデミックな世界ーーで、セキュラーな言語観や解釈に対峙し、また対等に対話していくためには、キリスト教世界観の中における言語観について考察することがまずもって大切だと思います。

 

残念なことに、古典的/改訂ディスペンセーション主義体系の中で規定されている「字義性」という思想は、神さまの造られた豊かな言語を過度に固定しすぎており、そのため言葉たちは、「字義性」という名の鎖につながれている感があります。

 

また、多くの聖書学者が指摘しているように、言語学の発展状況に対しては、完全否定でもなく完全肯定でもない、賢明なる判断と見極めが必要とされていると思います。*1

 

そういったバランスのとれた言語観/キリスト教世界観を探求しつつ学生生活を送るなら、花子さんの三事例のように、霊的分裂症になることもなく、自分のキリスト教信仰を恥じることもなく、またファンダメンタリズムの極端に走ることからも守られるのではないかと思います。(もちろん、常に闘いや葛藤はあると思いますが。)

 

最後にみなさんに励ましの言葉があります。もしも学生生活を送る中で、そして聖書の学びを続ける中で、みなさんが古典的/改訂ディスペンセーション主義体系の提示する「字義的」解釈という考え方をもはや受け入れがたいものに感じ始めたとします。

 

その際、「ああ自分は聖書信仰から離れて行きつつあるのかもしれない。自分は神様から離れつつあるのかもしれない」とどうか自分を責めないでください。ディスペンセーション主義体系の中で用いられている「字義的」解釈と、「聖書信仰」はイコールではありません。ここでいう「字義的」解釈というのは、聖書信仰という全体集合の中に存在する数ある諸理論の中の一つの理論であり、それの取捨によってあなたの聖書信仰が構築/崩壊するわけではないのでどうか安心してください。

 

また、仮にその解釈(or 体系)を受け入れられなくなったとしても、それによってご両親や母教会の方々の信仰を否定することにはならないのでそれも安心してください。ご両親も他の方々も皆それぞれ最善だと考える方法でキリストの栄光を仰ぎ、心から主の再臨を待望しておられます。ですからご両親や母教会の方々の信仰は信仰としてこれからも尊重していくことができると思います。みなさんの学生生活および人生の上に主の守りと導きがありますように。アーメン。

 

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