自分がずっと信じてきた教師、教理、体系、教会の根本的誤りが明らかにされ、「真理」だと確信を持って教えられてきた内容が実は誤った方法論で構築された虚偽であったことが判明した時、私たちの心にぽっかりと穴が開きます。
「御言葉による検証」「聖書解釈の原則」「みことばによってみことばを解釈する」「帰納的聖書の読み方」「この教えの『真理』にとどまる」等、かつてよく聞いていた "正しい" フレーズが今となっては空恐ろしく、疑わしく、そして空虚に感じられてなりません。
「なぜ自分はあの虚偽が聖書の『真理』だと『確信』できていたのだろう?あの『確信』は一体何だったのだろう?」「何らかの教えの体系に入ることは怖い。距離を置きたい。」「もうどんな『真理』にもコミットする勇気がない。」
今まで大切にしてきたもの、自分の血となり肉となってきた"いのちの教え"(=「真理」)とその建物が目の前で粉砕し、音を立てて崩れていきました。
私は今、その瓦礫の山の前に一人立ちつくしています。いや、"教え" や建物と共に、私自身が一片の〈瓦礫〉と化し、死んだように横たわっています。もう何も見たくない。何も知りたくない。誰とも関わりあいたくない。
16世紀の詩人は、そういった自分を「深い井戸」の底に見い出しました。
主よ。深い深い井戸の中にあっては
昼間でも 星々がみえます。
そうです。井戸が深ければ深いほど
星々は、なおいっそう光り輝きます。
おお、わが暗闇のうちにあって、汝の光を見させ給え。
生きている限り、人は、〈解釈〉する営みから逃れることはできません。苦しさの余り、もう自分はキリスト教の世界から逃れたい、「真理」「真理」と(それぞれの「真理」を)声高に叫ぶこの熱狂集団から逃れたいと思うかもしれません。しかしキリスト教を「脱却」しても、依然としてそこには諸解釈があり、諸体系があり、そして〈解釈する自分〉がいます。
聖書をまともに信じている「偏狭な」人々を危険視し、自分たちこそバランスのとれた中立的立場にいて社会改良に貢献できていると(秘かに)自負している知識人たちもまた、宗教人たちに劣らず立派に〈宗教化〉〈教祖化〉しているという事実を、仲正昌樹氏は著書『〈宗教化〉する現代思想』の中で暴露しています。
瓦礫の山や虚構の建物は、こちらの世界/あちらの世界、その双方に遍在しています。ですが建物や体系が崩れた時、そこに変わることのない主がおられます。そしてこの方を見上げる時、〈再生〉の旅が始まります。
ですから、、、私たちは、今いるその場所から共に再出発していきましょう。ゆっくり、時間をかけ、一緒に歩んでいきましょう。