巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

なぜ解釈学を学ぶのか?(アンソニー・C・ティーセルトン、ノッティンガム大)

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Anthony C. Thiselton, Hermeneutics: An Introduction, chapter 1, sec.1. Toward a Definition of Hermeneutics(拙訳)

 

解釈学は、私たちがいかにテキストを読み(特に自分たちとは時間や生活の文脈を隔てたところで書かれたテキストを取り扱う際)、理解し、取り扱うのかを探求します。そして聖書解釈学においてはさらに、聖書テキストをいかに読み、理解、適用し、応答していくのかを研究します。

 

より広範に言いますと、19世紀初め以降フリードリヒ・シュライアマハー(1768-1834)の著述に倣い、解釈学は、複数にまたがる学術的分野に関わるものとされています。

 

 

聖書解釈学は聖書的および神学的問いを発している。

それは、「いかにして理解するに至るのか」そして理解が可能となる基盤についての哲学的問いを発している。

それはテキストの型や読解のプロセスに関する文芸的(リテラリー)問いを発している。

それは、--時に階級、人種、ジェンダー、先行する信条等のーーすでに据えられている諸関心が、いかに私たちの読み方に影響を与えているのかについての社会的、批評的、あるいは社会学的問いを発している。

それはコミュニケーション理論や(時として)一般的言語学に関する理論を引き出している。なぜならそれは内容や結果を読者や共同体に伝達する一連のプロセスを取り扱っているからである。

 

聖書テキストの理解において、解釈は、旧約と新約緒論および釈義を含む、聖書学におけるさまざまな資料を用います。それと同様に、キリスト教神学や聖書正典ーー特に解釈史ないしはテキストの「受容」についての背景ーーに関する問いも無視できません。

 

解釈学における数多くの洗練された理論的問いを、日常、私たちの大多数が直面している実際的諸問題から切り離して考えることは不可能です。例を挙げましょう。

 

問い)テキストの意味は読み手によって「構成」されるものなのでしょうか。それとも、意味は、テキストの作者によって、テキストを通し、「授与」されているものなのでしょうか。*1

 

これは解釈学的理論において複雑に入り組んだ問いですが、これは私たちが基本的な実際的問いに"いかに"答えていこうとしているかにかかっています。つまり、聖書というのは結局、私たちがどうにでも意味したいような意味にすることのできる代物なのでしょうか。信頼するに値する、もしくは妥当なる聖書解釈のための規範や基準に関し、私たちは互にいかに意見の一致をみることができるのでしょうか。

 

教会教父たちの時代(~約AD500年まで)及び、宗教改革から19世紀初期にかけ、解釈学というのは通常、「聖書解釈のための諸規則」として捉えられていました。全員ではありませんが多くの著述家たちの間にあって、解釈学というのは釈義とほぼ同じ(あるいは少なくとも、信頼のおける方法の中で釈義に取り組むための諸規則としての)意味を持っていました。

 

19世紀のシュライアマハー、それから特に20世紀後半のハンス・ゲオルグ・ガダマー(1900-2002)の登場によって初めて、解釈学というのは科学というよりはむしろわざ(art)であるという観念が出現してきました。1819年にシュライアマハーは次のように記しています。「解釈学というのは、思考のわざ(art)であり、それゆえに哲学的である。」*2

 

それと同様に、ガダマーも、主体を「方法」における純粋に合理主義的諸手順から離した上で、次のように述べています。「何より、解釈学は一つの実践であり、理解におけるわざである、、その中にあって、人が何にも増して実践しなければならないことは〔聞く〕耳である。*3

 

 

ガダマーの代表作である『真理と方法』という書名自体が、理解と真理を獲得する方法としての合理主義的ないしは機械論的「方法」に対する彼の懐疑を示唆しています。その意味で、彼は書名をむしろ「真理ないしは方法」としてもよかったかもしれません。

 

そうではありますが、自分たちは解釈学やテキスト解釈における「諸規則」を形成することができるのだとする考え方には長い歴史があり、それはいくつかの場において今日でも尚存続しています。

 

ですから「解釈のための諸規則」についての初期ラビ的諸伝承がこの形態をとっているのは驚くに値しません。まず、聖なる聖書テキストの諸解釈は固定されたラビ的諸伝承の中に安置されます。(但しそういった諸伝承はしばし、新しい諸状況を言及するものとへ発展していきましたが。)

 

二番目に、そういった初期形成の諸伝承は、より広義な語義における解釈学というよりはむしろ、演繹的論理とより関係していました。解釈における七規則というのは伝統的に、ラビであるヒレル(約BC30年)の執筆によるものだとされています。

 

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ヒレル。ユダヤ教のラビ。BC70頃ーAD10年頃。バビロン生れ。 40歳頃エルサレムに遊学し,パリサイ人の指導者となった。当時パリサイ派内で有力であったシャンマイ派に対抗して,演繹と類推をもとにした律法解釈の方法を「7則」にまとめ,進歩的論理主義の立場に立った。また倫理の面では,律法全体の精神を「自分にとっていやなことを隣人に対してするな」という,キリスト教の黄金律を逆に表現したような形で要約し,異教徒や改宗者に対しても開かれた態度で接した。シャンマイ亡きあと,ヒレルに従うものがヒレル派を形成,律法解釈の主流を占めた。(ヒレルとは - コトバンク

 

最初の5則は、演繹的かつ帰納的論理にかんする諸規則です。「軽いものと重いもの」と呼ばれる最初の規則は、推論の引き出しに関連したものです。そして二番目は、比較やアナロジーの適用に関するものです。それから第三、第四、第五は演繹(一般原則によって、特殊なものを推論し説明すること)と帰納(個々の具体的な事例から一般に通用するような原理・法則などを導き出すこと)に関するものです。

 

それに対し、第六、第七番目の原則は、より純粋に解釈学的なものです。これらの原則は問いかけます。聖書の一節は、他の節の意味に関係し、それに影響を与えているのでしょうか?一つの聖句のより広範な文脈は、どのようにその意味を説明しているのでしょうか?

 

しかし私たちはこれら七則(moddoth)の意義を誇張すべきではないでしょう。というのも、これらはしばし、後になって、恣意的な方法で適用され、また、聖典テキストに対するラビ的問い(ミドラーシュ)は、テキストの最終的権威への信奉および、ラディカルに多様なる諸解釈や適用の可能性、その双方を包括しているからです。また、そういったいわゆる「諸規則」は、当世のヘレニズム的修辞の中で形成された諸原則とも多くの共通点を持っています。*4

 

解釈における「諸規則」という概念は、聖書正典の無謬性や無誤性に関する観念を不可欠のものだと考える保守的な著述家たちに訴えてきましたが、誤りを犯しがちな人間による解釈という観念は、聖書テキストの実際の使用における聖書的権威に対する一連の伝達の中において、弱い紐帯を提供しているように思われます。

 

それゆえに、例えば、解釈学の分野において最も保守的な教科書(1890)の一つを執筆したミルトン・S・テリーは冒頭で「解釈学は解釈の科学である」と述べています。*5

 

しかしテリーでさえ、次のように認めています。

「〔解釈学は〕科学であり、またわざ(art)である。科学として、解釈学は諸原則を明示する、、、そして諸事実や諸結果を分類する。他方、わざとして、それはそういった諸原則がいかなる適用を持っているのかを教示し、、、より難解な聖句の解明におけるそれらの実際的価値を示している。」*6

 

しかしテリーの作品は、伝達プロセスにおける「源泉」としての聖書テキストにほぼ独占的にフォーカスが集中しています。そして読み手や読み手の共同体がテキストにもたらしている理解の地平に対しては比較的わずかな取り扱いしかしていません。

 

そしてこの「第二番目」(もしくは読み手)の地平に対する関心こそが、シュライアマハーおよびガダマーをして、解釈学を「理解のわざ(art)」と再定義するよう導かしめたのです。

 

クラスでの講義と同様、コミュニケーションというのは、テキストや主題にかかわる源泉によって伝達される(transmitted)ものを描写しているだけでなく、読み手ないしは「標的」観衆によって運ばれ(conveyed to)、理解され(understood)、当てられた(appropriated by)ものをも描写しています。

 

コミュニケーション理論や一般言語学において、著述家たちはしばしこのプロセスの両サイドを指し示すべく「送り手」「受け手」という用語を用いています。そしてこのプロセス全体ーーコミュニケーション行為や出来事として、作者、テキスト、読み手に関わる全過程ーーに対する配慮が、いくつかの方法で釈義から解釈学を区別せしめています。

 

著述家たちは時折、次のように不満を漏らします。「ユダヤ作家のフィロン、それからクレメンスやオリゲネス以降の後期アレクサンドリア学派の教父たちは、聖書記者たちのテキストを『寓喩化』し、『字義的』意味を超えた寓喩的意味に行ってしまったのです。」

 

このように訴え出る人々は、このアプローチが往々にして、テキストの作者によって意図された「字義的」意味を歪曲していると主張しています。基本的な次元において、この訴えにはいくらかの真理があります。しかしここに関与している諸問題はまた、より複雑でもあるのです。

 

アレクサンドリア学派の解釈学は、「聞き手や読み手の理解や応答に及ぼすテキストのインパクト」に関する問いを意識的に問うていました。そして少なくとも、そういった「問い」自体は妥当なものでした。そしてそれに対する「回答」の部分ですが、これはストレートなyesかnoでは収まり切れない複雑性を持っていますので、後の章で詳しく取り扱っていきたいと思います。

 

読み手に対する懸念というのが、アレクサンドリア学派の顕著な解釈学に寄与していました。*7しばし言及されるのが、「〔アレクサンドリア学派とは対照的に〕タルソの長老ディオドルス、モプスエスティアの長老テオドロス、ヨハネス・クリソストムスを始めとするアンティオケ学派は〔寓喩的解釈とは〕反対の強調をし、『字義的』意味を擁護した」というものです*8

 

広義の意味においてこの言明は正しいのですが、クリソストムスはまた、テキストの作者の役割にも配慮しておりーー特にイエス、使徒たち、預言者たちの事例においてーーそれらがテキストの意味を「制御する("in control")」状態にとどまり続けることに心を配っていました。そしてこれは、当該事項における〔両学派の〕強調点の相違形成に関し、ーーただ単に「字義的」意味にかんしてコメントするよりもーーより良く、より正確な方法による説明となっています。

 

「字義的」という語を、人々は多くの異なった仕方で用いており、その意味で、この語は滑りやすく不安定な用語だと言えます。*9*10

 

最後に、釈義と解釈が、テキスト解釈における実際のプロセスを指し示している一方、解釈学はそれに加え、「私たちがテキストを読み、理解し、適用する時、自分たちは正確には一体何をしているのだろう?」という二次的学問分野をも包含しています。

 

つまり、解釈学というのは、信頼が置け、妥当で、実り多く、適切な解釈を確かなものとすべく機能している"諸条件"や"基準"がいったい何であるのかを探求する学問なのです。それがゆえに、解釈学というのはさまざまな学的分野を招集する必要性があるのです。

 

また、ここから「人はそもそもいかに理解するのか、という哲学的問い」「自己性、自己関心、自己欺瞞に関する心理学的、社会的、批評的問い」も引き出されてきます。それだけにとどまりません。解釈学はまた、テキストの性質や効果およびテキストの持つ力に関するリテラリー理論の中で提示されている諸問題をも招集し、さらに、聖書学、教会史を通じた解釈の営み、教義や神学の中で持ち上がってくるさまざまな問いにも呼応しています。

 

ー終わりー

 


*1:〔訳者注〕関連記事: 

*2:Friedrich Schlaiermacher, Hermeneutics: The Handwritten Manuscripts, ed. Heiz Kimmerle, trans. James Duke and J. Forstman (Missoula: Scholars Press, 1977), p.97.

*3:Hans-Georg Gadamer, "Reflections on My Philosophical Journey," in The Philosophy of Hans-Georg Gadamer, ed. Lewis Edwin Hahn (Chicago and La Salle, Ill.: Open Court, 1997); 論文全体としては、pp.3-63を参照。

*4:これに関する専門的議論は、David Daube, "Rabbinic Methods of Interpretation and Hellenistic Rhetoric," Hebrew Union College Annual 22 (1949): 234-64.

*5:Milton S. Terry, Biblical Hermeneutics: A Treatise on the Interpretation of the Old and New Testaments (Grand Rapids: Zondervan, 1974), p.17.

*6:Terry, Biblical Hermeneutics, p.20.

*7:Karen Jo Torjesen, Hermeneutical Procedure and Theological Method in Origen's Exegesis (Berlin: Walter de Gruyter, 1986)は、正当にも、オリゲネスの方法論の中における彼の牧会的配慮に関する役割の部分を明示しています。

*8:〔訳者注〕アンティオケ学派については以下の記事をご参照ください。 

*9:「字義的」意味に関する複雑な語使用についての優れた論考としては、R.W.L. Moberly, The Bible, Theology, and Faith: A Study of Abraham and Jesus (Cambridge: Cambridge University Press, 2000), pp.225-32.

*10:〔訳者注〕関連記事