巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

自分とは異なる見解を持つ同胞をより良く理解し、より深く愛していくために

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ロバに乗った老人

 

目次

 

はじめに

 

年を追うごとに、私は、自分が、ギリシャ正教会という「他者」の視点および教会伝統の中に置かれていることに感謝するようになってきています。

 

混在するパースペクティブは時に私たちを相対主義や懐疑主義に陥れる罠ともなりますが、それはまた、自分(や自分たち)の立場をクリティカルに見直したり、修正したりする機会を提供する豊穣と成長の場ともなり得るのではないかと思います。そして何より、こういった環境は、自分とは考え方や捉え方や解釈の仕方の違う隣人をいかにしてよりよく理解し、キリストにあって愛していくことができるのかを考え、実践していくことのできる活ける学校だと思います。

 

できる限り、相手の言い分を「直接」聞くように努める

 

エホバの証人の長老だった方が、脱会後、プロテスタント教会に移り、次のような事をおっしゃっていました。

 

「福音主義教会に移って気づいたのは、自分が王国会館の中で四六時中聞かされていた〈プロテスタント教会像〉の内容の多くは、実際には不正確で誤りを含むものであったということでした。彼らの為す全ての解説が間違っていたというのではありません。そうではなく、その中にはプロテスタント教会に対する誤情報や根拠なき偏見が含まれていたということです。そして、福音主義教会に来て、私は類似の現象がここでも起こっていることに気づきました。エヴァンジェリカルの出版物の描き出す〈エホバの証人像〉の中には正確な内容と共に誇張・虚偽の内容もまた含まれていたのです。」

 

自分の見解がねじまげられたり、文脈を無視して曲解されたり誤解して伝えられているのを見聞する時、私たちの心は悲しみに沈みます。その反対に、相手が自分の真意を汲み取ってくれ、それを上手に表現してくれている時、私たちは「ああ、自分は理解してもらっている。愛されている」と感じます。

 

相手の真意を汲み取り、相手の見解を正しく理解することと、その見解に賛同することは二つ別々のことですが、賛同するにしても反対するにしても、それが愛と公正の精神の中でなされるために、他者への正しい理解とそれへの努力はやはり必要不可欠なものだと思います。

 

キリスト教会史の中の「悪玉」と言えば・・・??

 

オリゲネス(185-254)という教父がいます。思うに、キリスト教会史の中で「一度も本人の直接的言い分(=著述)に耳を傾けられることなく、バシッと『悪玉』のレッテルを貼られている人のランキング順位」というのがあったとしたら、オリゲネスはおそらく上位3位の中に堂々ランクインするのではないかと思います。

 

オリゲネス ⇒ 寓喩的解釈 ⇒ 悪玉

以上。

 

確かにオリゲネスは「???」と思うような奇想天外な推論をいろいろしていると思います。しかし、、、is that ALL?私は昨年、オリゲネスの『マタイの福音書註解』と『ヨハネの福音書註解』を全部ではありませんが、じっくり読んでみました。

 

まず驚いたのは、彼の徹底性です。四福音書を自在に比較参照しながら(もしかしたら彼は福音書を暗記していたのかな?)読み比べをしています。東京基督教大学の伊藤明生師はオリゲネスの聖書解釈について次のような事を述べておられます。

 

 「ギリシア神話の神々を信じない者にホメロスの叙事詩が寓喩的に説き明かされて理解し易くなったように、旧約聖書、特に律法に直接の意義を見出せない異邦人読者のためにフィロンは旧約聖書を寓喩的に説き明かした。同じように、オリゲネスら異邦人である教会教父たちは旧約聖書を寓喩的に解釈して、自分たちに関連する意味を見出した。対照的に、パウロがローマのキリスト者の群れに書き送った手紙は大部分神学的な内容であったので、オリゲネスたちが繰り広げていた神学論争に直接関連する内容であった。

 

 そういう意味では、ἱλαστήριον など個々の表現を寓喩的に解釈することはあっても、敢えてローマ書全体を寓喩的に解釈する必要がなかった。寓喩的聖書解釈の旗手であったオリゲネスであっても、どのような文学類型の文書に寓喩的解釈がふさわしく、どのような文学類型の文書には不適切であったり、不要であったりするかを心得ていたのであろう。オリゲネスは寓喩的聖書解釈者である、とレッテルを貼り付けただけでは,複雑怪奇なオリゲネスを理解したことにはならないことを改めて肝に銘じたい。」(引用元

 

「オリゲネスは寓喩的聖書解釈者である、とレッテルを貼り付けただけでは、複雑怪奇なオリゲネスを理解したことにはならない」ーー確かに言い得て妙だと思います。

 

オリゲネスを批判するにしても再評価するにしても、私たちは二次資料に頼るのではなく、まずは自分がオリゲネスにしっかり向き合い、彼が実際に何を言っているのか(あるいは言っていないのか)を確かめる地道な努力が必要であることを思わされます。

 

いざイコン問答!

 

また先日、私は、イコンに対する正教会側の見解を直接聞こうと思い、ある修道院のシスターに質問してみました。すると、彼女もまた、(カルバリーチャペルから正教会へ転向した)マシュー・ギャラティン師と同じように、イコン崇敬の行為(τιμῶ, προσκυνῶ)は、礼拝(λατρέυω)とは異なり、従ってそれは偶像礼拝ではないということを強調しておられました。

 

東方正教会の弁証サイトにも次のような記事がありました。

「イコンを崇敬することは正しい事ですか?もしかしてそれは偶像礼拝ではありませんか?」Είναι σωστό να προσκυνούμε τις Εικόνες; Μήπως συνιστά αυτό ειδωλολατρεία; – Orthodox Answers

 

この記事によると、確かに間違った状況もしくは誤った対象に対しその行為がなされる場合、偶像礼拝の危険性はある、しかしイコン崇敬の行為は、「イコン化された〈顔〉を敬うことであり、崇敬は、〈実体〉ではなく〈型〉に向けられるものである(Τιμάμε το εικονιζόμενο πρόσωπο. Η προσκύνηση μεταβαίνει στο πρότυπο και όχι στην ύλη.)」との旨が記述されてありました。

 

正教会の神学者オリヴィエ・クルマンは、「イコンのキリスト論的な意味」と題して、次のような論を展開しています。

 

「教会は、まずイコンがキリスト自身に他ならないことを明らかにした。旧約聖書では、神は『ことば』をとおしてあらわれたため、神を描きだすことは冒涜であった(出20:4-5)。しかし、この『ことば』は肉身となってあらわれた。キリストは『神のことば』であるだけでなく、神の『像』でもある。イコンの基盤は『受肉』にあり、イコンは『受肉』を証明するものである。」(オリヴィエ・クルマン著『東方正教会』より)

 

ここから受け取ったのは、おそらく東方正教会の中におけるイコンは、旧新約の啓示の「非連続性」という枠組みの中で解釈されているのではないかということでした。そしてその路線で考えると、なぜ正教会が「御子」のイコンは許可しても、「御父」のイコンは禁じているのか、そのロジックがなんとなく分かるようになりました。*1

 

「神性の源である父を描くことは、第7回全地公会、および1666年ー67年のモスクワ公会で正式に禁止された。」(同著,p.143)

 

また、私たちプロテスタント教徒からみたら、西洋の宗教画も東方のイコンもたいした差がないように感じられると思うのですが、東方教会の視点で言えばそうではないのです。興味のある方は以下の記事をご参照ください。(イコンと西洋の宗教画との区別の基準

 

イコンに対する正教側と新教側の間の解釈の違いをみる時、私はポイスレス教授の次の言葉を思い出します。

 

「ここには聖書に対する統合されたある一つのアプローチがあり、このアプローチは、『内側から』同情心を持って見る時、たしかに『理に適っている』のです。そしてそれはちょうど、あなた自身のアプローチが、『内側から』同情心を持って見た時に『理に適っている』のと同じなのです。」ディスペンセーション主義者を理解する ② 

 

一つの食卓を囲んでーー公開ディベートの有益性

 

異なる見解や解釈体系を持つキリストにある同胞をより良く理解し、愛していくために私が重宝しているのが、「公開ディベート」です。

 

教理上の諸見解を、公の場で論じ合う公開ディベートが何世紀頃から始まったのか存じませんが、宗教改革期の文献の中にはすでに登場しているので、遅くとも16世紀までにはこの慣習はヨーロッパの諸教会の中で確立していたのではないかと推測します。

 

公開ディベートは、まずじめじめしていません。自分の狭い陣地の中で、自陣営の人たちだけに向かい、(その場におらず、従って反論や弁明もできない)論戦相手を醜くこきおろしたり、馬鹿にしたり、彼らの見解を歪曲したり誤解して伝えるようなーー、そのような陰険さを、公開ディベートは昼間の光で追い出します。

 

それはまた分派的分室(compartment)から、共有された一つの「食卓」へと私たちを招き入れます。「終末論の夕べ」と題された下のビデオの中で、異なる千年王国説を支持する三者が、一つのテーブルを囲み、話し合っています。(司会進行役はジョン・パイパー師)

 

歴史的前千年王国説(ジム・ハミルトン師、南部バプテスト神学校聖書神学)

後千年王国説(ダグ・ウィルソン師、保守改革派クライスト・チャーチ牧師)

無千年王国説(サム・ストームズ師、ブリッジウェイ教会牧師、Gospel Coalition理事)

 

 

後千年王国説、無千年王国説、歴史的前千年王国説の間には、(神の国の神学における)現在面と未来面の強調点等の些末な相違こそあれ、三者共に、聖書神学が基本構造として持っている「神の国の概念、その現在性と未来性の構造」をシェアしており、その意味で、三者は皆、共通の土台に立っているということができると思います。(参照

 

共通の土台に立っているーー。これは本当に喜ばしいことだと思います。英語を解する方はお時間のある時にぜひこのビデオをご覧になってください。そしてその際特に、みなさんの信奉する千年王国説ではない他の二つの見解にじっと耳を傾けてみてください。

 

私にとってこの営みは、他者理解の助けになるだけでなく、根本の部分で、やはり私たちは一つであるーー一つのみからだに属する家族であるーーということを再確認する「ファミリー・タイム」としての意義を持っています。

 

おわりに

 

相対主義的「八方美人」でもなく、分派主義的「独善主義」でもない第三の道は存在するのでしょうか。私は、現在のこの混沌は混沌に終わるものではないと考えています。そして分裂も分裂に終わるものではなく、私たちはこういった複雑な状況のただ中に、高く上げられた至高のキリストと神の栄光をみるのだと思います。

 

ポスト近代における入り組んだ問題が提示され、さまざまな議論がなされています。しかし、隣りにいる「他者」としての同胞を真に理解し愛していこうとする私たちの日常の小さな積み重ねの中に、もしかしたら意外な解決のヒントが見い出されるのかもしれません。

*1:〔追記〕正教会の方の記事