巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

随想

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私たちが住んでいる地区はあまり治安がよくありません。そのため、私は、日没後、主人の同行なしに一人で外に出ることはほとんどなく、また昼間でも、主人がいない時には、ブザーの音がしても基本的に戸は開けず、インターホンで応対しています。

 

こういった環境により、また、相補主義的な信仰の立場*にたつクリスチャンの女性であるという二重の要因により、私の〈空間〉は、他の先進諸国に生きる女性たちよりもおそらく「狭く」、外から見ると、なにかと制限の多いものであるように映っているかもしれません。

 

それでは〈内側〉からはそれはどのように見えているのでしょうか。それは窮屈で自由のきかない世界なのでしょうか。主のご統治の下に備えられた外的環境や条件は、信仰の目でみた時、さまざまな意味深いメタファーで溢れています。

 

イエス様がヨハネ10章で「門番」(3節)、「羊の門」(7節)のことを語っておられますが、門やゲートというのは、外部との直接交渉の場であり、「羊の門」としてのイエス様は、「狼」(12節)や「強盗」(8節)が囲いの内に入らないよう、常に見張っており、いざとなったら臆さず侵入者たちと対決します。強固で頑丈なる「門」が常にそこにあり、牧者が羊を守ろうとしてくれていることを知る時、私たちはーーたとい外がどんなに治安の悪い場所であろうともーー安心してうちに憩うことができます。

 

ジェンダー問題を取り扱う時、私たちはしばし「平等」の意味や定義のことに話が集中してしまいがちですが、ここにーー「前方」と「後方」--というもう一つ別の次元を付加してみるのも、あるいは興味深いことかもしれません。演劇の舞台等でもそうですが、前面に出る人と後方(の舞台裏)で立ち働く人という違いは、役割・機能の違いに基づくものであって、決して優劣の差に基づくものではありません。

 

教会の中においても、家庭の中においても、男性よりも一歩奥まったところ(つまり「後方」)にいること、そしてそこにとどまり続けることを意志する生き方や信仰、そして価値観は、私たち女性を内的に豊かにするものであると私は信じています。

 

聖書のフレームの中で私たち女性に与えられている「領域」があります。(この領域は、たとい同じ相補主義内であっても、各教会、各家庭、あるいは各文化圏や時代でその境界線の引き方に若干違いがあると思います。)同じ相補主義のご主人を持つ姉妹たちであっても、ある姉妹にはより広範な活動領域が許容されており、別の姉妹にはそれよりも狭い領域が授与されています。

 

その際に大切なことは、あちこち左右をみて、他人と自分の状況を比較するのではなく、各個人の上に主権的に働いておられ、私たち一人一人の最善を知りつつ、各状況を整えておられる主の御手をそこに見、全幅の信頼を置くことではないかと思います。

 

広々とした空間や幅というのは、必ずしも外的活動領域に比例/符合せず、それは、第一義的に内的・霊的なものであると思います。そして、聖書理解における螺旋(らせん)上の歩みと成長の中で、内的広域性はますます私たちの内で確かなものにされていくのでしょう。

 

また前にも書きましたが、神のお定めになった創造の秩序およびかしら性を尊重し、御言葉に従いたいという願いから、私たち女性がある領域において自発的な「制約*」を置くことも一つの智慧ではないかと思います。グレーゾーンの領域に入ることをなるだけ避け、ホワイトゾーンの中にとどまろうとする試みは多くの軌道修正と自省を要します。しかしその努力はけっして無駄にはならないと思います。

 

前の記事の中でもお分かち合いしましたが*、試行錯誤の結果、私が自発的に置くことにした「制約」は、全く思いがけず、敬虔で勇敢な男性教師たち(愛称:「オジサン」たち)のこのブログ上での活躍を促す結果につながりました。オジサンたちは壇上へ躍り上がり、中世のフェンシング騎士のような敏捷さと身のこなしで格闘を繰り広げ(エペソ6:12)、空中の敵を打ち負かしています。オジサンたちはこのブログの霊的「有刺鉄線」であり、騎馬兵です。そして何よりキリストにある尊い兄弟です。

 

キリストの中にあって男性と女性が互いを補い合う存在として、それぞれふさわしい場所に置かれることにより、私たちのうちに喜びの泉が湧き、それはやがて周りの世界をも満たしていくものとされていくでしょう!