巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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言語学者たちの語彙的誤謬について(by ダニエル・B・ウォーレス、ダラス神学校 新約学)

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ソシュールは,言語変化を研究する「通時的な(diachrony)」言語学と,ある時点における言語の状態を研究する「共時的な(synchrony)」言語学を峻別することを主張した.ソシュールによれば,この2つの観点はまったく相容れず,完全に対立するものである.それは,ちょうど木の幹を切る2つの方法に相当する.1つは幹を水平に切り,年輪の刻まれた断面図を観察すること.もう1つは,垂直に切り,時間軸に沿った木の成長を観察することである.(引用元

 

目次

 

Daniel B. Wallace

ダニエル・B・ウォーレス(ダラス神学校、新約学)

 

Daniel Wallace,  Lexical Fallacies by Linguists(拙訳)

 

言語学者たちが正当にも指摘した4つの誤謬

 

1961年、ジェームス・バーの「聖書言語の意味論(Semantics of Biblical Language)」が出版され、聖書を学ぶ学生たちに、言語学における興味深い分野が紹介されて以来、聖書学の世界は一変しました。

 

バーは、その洞察を、フェルディナンド・ソシュール(『一般言語学講義』(1916))等の言語学者から得、それは語彙学における画期的事件となりました。

 

これらの学者たち(それから彼らに続く無数の学者たち)によって指摘された語彙的誤謬とは次のようなものです。

 

語根に関わる誤謬(Root fallacy):ある単語のいわゆる "オリジナルな" 意味を、歴史全体を通したその語用に当てがう誤り。

 

通時的なものを優先させる誤謬(Diachronic priority):語根に関わる誤謬と同様、これも、歴史を通したある単語の使用を、あたかもそれらの語用すべてが、歴史のどの断片(共時的見地)においても有効であるかのように見る誤り。

 

非正統的な全体移動(Illegitimate totality transfer):ある時期に起こったすべての語使用が、どんな状況においても適用され得ると前提する誤り。

 

「語彙ー概念の等式化」という語謬(Lexical-conceptual equation):「概念は単一の単語や単語グループの中に保存されている」もしくは「ある単語⇔ある概念間の無意識的相互転移」という誤った信奉。(例:ἁμαρτάνωと罪)

 

上に挙げた誤謬は、1961年以前の著述群の中でもよく論説されており、それらは実際、本当に私たちが回避しなければならない言語学的誤謬です。私は実質的に、こういった言語学的アプローチをシンタックス(統語論)に適用した上で、以下の著書を執筆しました。

 

Greek Grammar Beyond the Basics: An Exegetical Syntax of the New Testament (Zondervan, 1996).

 

言語学者たち自身の3つの誤謬

 

しかしながら、それ自体が誤りを含むその他の「誤謬」も存在します。以下にその3つを列挙します。

 

1)文脈を離れては単語には意味がない。

2)通時態(diachronics)は助けにならない。ただひたすら共時態に集中すべき。

3)語源学は常に価値がない。

 

本記事で私は、言語学者たちのこれら3つの誤謬を手短に検証していきたいと思います。

 

「文脈を離れては単語には意味がない。」という考え

 

しばし言語学者たちは、次のように言います。「この単語はーーただ唯一、文脈によって決定されるところのXである場合にのみーーXという意味を持ち得る。」しかしこれは単語に対する不合理な要求と言わなければなりません。

 

もしも所与の発話の中のすべての単語がXという意味を持っていたのだとすると、私たちは発話が意味している内容を把握することができません。次の文を見てください。

 

「メアリーは、雪のように白い毛の小さい羊を飼っていた。」

 

もしも私たちの知らない単語が「羊」だけであったら、より広範囲な文脈の助けを得、それは4つ足の家畜用反すう哺乳動物であり、その毛皮コートは服飾のために用いられているということを掴むことができるでしょう。しかし、仮にこの文章に出て来る単語を何も理解できなかったとしたらどうでしょうか。

 

不幸なことに、現代言語学で武装した上で語彙的学びをする際、彼らはしばしば、ターゲット用語以外のすべての意味を前提しています。しかしその他の単語の意味はどこから来たのでしょうか?もしも「文脈を離れては単語には意味がない。」という言語学的観念を持ち込むのなら、上記の文章は当初次のように言及されていたでしょう。

 

X X X X X X X X X X X.

 

ロゼッタ・ストーンの発見によるまでは未解読であったエジプト象形文字のように、私たちはこの文章の意味を理解することは決してできません。単語の意味が何であるかを直接的文脈が言うだけでなく、これは次に挙げる二番目の誤謬の議論にもつながります。

 

「通時態(diachronics)は助けにならない。」という考え

 

しばしば言語学者たちは「単語の意味を決定する上で通時態は役に立たない」と考えています。ソシュールが使ったアナロジーはチェスの試合です。ーー試合が始まってしばらくしてからその場に来た人は、試合の様子を観察するだけでどちらが勝ちつつあるのか分かります。彼はそれ以前にどんな事が起こっていたのかを知る必要はありません。

 

これは、通時態(言語のあり方を時間軸に沿って捉えた言語の諸相。主として史的変化を観察する際の対象。)の排除と、共時態(ある言語のある特定時点における状態。)の優先です。

 

しかし、このアナロジーには生得的誤謬があります。この場合ですと、チェスの各コマは「常に」それ自身提示された機能や能力を持っています。それは決しては変わりませんが、依然として通時態を前提しています。

 

さらに言えば、チェスの試合というのは最良のアナロジーとは言えないと思います。より良い例はアメリカン・フットボール試合でしょう。(あるいはチームを必要とするその他のコンタクトスポーツ)

 

仮にあなたが1974年の「USC対ノートルダム」対戦の四分の三の初めにスタジアムに到着したとしましょう。その時点でのスコアは24-7で、ノートルダムが優勢でした。「この調子でいけば、ノートルダムが勝つだろうな」とあなたは思うかもしれません。

 

後半、USCのチームは、同じ番号こそ着用していたものの違うメンバーのようでした。そしてUSCは後半に入り、55-24でノートルダムに圧勝したのです。彼らの勝因を知るべく、人は契機や、中盤にコーチが選手たちに何を言ったのかといったことも知る必要があるでしょう。つまり、スコアが何点であるかを知るだけでは、結果をうまく予測することはできないわけです。

 

このアナロジーを拡大しつつ、仮に残り5分というところで、チームが同点に追いつく様をあなたが目撃したとします。誰が契機となるプレーをしたのか(これは通時態によってでしか知ることができないものです。)、どんな怪我により、鍵となる選手たちがプレーできなくなったのか、そしてそれはいつ起こったのか、どちらのチーム側にボールがあったのかーーそして同じく重要なことは、彼らがいかにしてそれを取ったのか、、それから、どんなプレーが功を奏したのか、どの選手たちが攻撃の先導をしたのか等、、、はどれも、結果を決定する重要な要素です。

 

プロの博打師たちがW-Lコラム欄だけをみるだけでなく、怪我の具合や、本拠地球場で試合することの利点、気候、一対一の組み合わせ、その他数多くの要素をじっくり調べるのと同様、通時態もまた、結果を決定する上での鍵となる要素です。たしかに現時点での状況(共時態)が一番重要な因子ではありますが、過去もまた、より明確な全体像をつかむための助けになります。

 

言語学者たちはしばし次のように言います。「この話者や著者は、自分の使っている言葉の通時態用法を意識せず、それらに気づいていない。だから我々は過去の語用ではなく、この話者/著者の語用にフォーカスを置く必要がある。」

 

私も共時態への優勢の原則には同意しています。しかし共時態オンリーという"排他性"は受容されてはなりません。

 

なぜでしょうか。なぜなら、その話者/著者は、おそらく母語に長けており、その発話の中で使用するさまざまな単語のほとんどにこれまで何百回、何千回と触れてきたはずだからです。通時態というのは、ーー古代の話者ではなくーー現代の研究者にとって必要なものなのです。

 

現代の研究者は、古代の話者と同じ言語的背景を持っていないというまさにその理由で、通時態の研究を活用しつつ、言葉の意味を調べる必要があります。

 

例えば、κοινός / κοινωνία / κοινόω / κοινωνέω などの単語グループのことを考えてみてください。新約聖書では、この単語グループが神と人間の関係について用いられる時、それはしばし、十字架ゆえに積極的光の下に置かれています。イエスがこのことを可能にしてくださったため、私たちは神と交わり(κοινωνία)を持っています。

 

他方、七十人訳(LXX)では、この単語グループは、(いつもという訳ではありませんが)しばしば、決定的に否定的な意味合いを帯びています。それではこれらの言葉の意味が変わったのでしょうか?いいえ。七十人訳の時も、やはり、この語グループには、「なにかを共有する」という思想がありました。変化が生じたのは〔語の意味ではなく〕、御子の血潮を通した人類の神に対する関係でした。

 

しかし、私たちが、新約聖書の中に登場してくるこの単語グループの共時的意味しか考慮しようとしないのなら、この背景を見落としてしまうことになり、それゆえに、新約聖書におけるこの語使用の豊かさに対する重要な手がかりをみすみす逃してしまうことになります。

 

「語源学は常に価値がない。」という考え

 

長い歴史を持つ単語の意味を決定するに当たってはもちろん、語源学はほとんど必要とされません。実際、言葉は時と共に意味変化をしていきます。そして「語源に関する誤謬」はまさにこの点をないがしろにしているのです。しかしその一方、比較的最近できた言葉ーーそしておそらくはあなたがリサーチしているその著者自身が造り出した言葉ーはどうでしょうか?

 

例えば、θεόπνευστος(神に霊感された)という単語は、ギリシャ語聖書の中では2テモテ3:16の中にしか登場してきていません。パウロがこの語を新しく造ったわけではありませんが、この語は当時、比較的新しい語(ヘレニズム期に最初に登場したと考えられています。)でした。そのため、パウロがこの語を使った当時、語の歴史は浅かったのです。

 

そしてこの語を、構成諸要素に分解すること(これは語源研究の一形態です)により、私たちはこの語が「神に息を吹き込まれてある」もしくは「神によって霊感された」という意味だろうということに察しがつきます。それでは、これは2テモテ3:16においても効力を持っていたのでしょうか?ええ、ほとんど間違いなくそうだったはずです。

 

ある語が新造語であり、特に、その語が当該著者によって初めて使用されている際、語源研究は必須です。その意味が各部分になんら類似性を持っていないような単語を造り出す著者はいません。他方、比較的長い間、流通してきた言葉ーー特に一般的言葉ーーは、主として共時的分析を必要としており、通時的研究はあくまでも補完的なものとなります。

 

現代言語学が、聖書学に重要かつ永続する貢献をしてきたというのは事実ですが、すべての言語学的諸原則が等しい価値を持っているわけではありません。そしてその中のいくつかはそれ自体で誤っている場合でさえあります。

 

ー終わりー

 

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