巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「混沌」から「より明瞭」な方向へ羊を導いてくれる聖書教師

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目次

 

はじめに

「女性は静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい」(1テモテ2:11)という御言葉が示しているように、私たち女性にとって、よく従う心をもって健全な教えを「受けること」はとても大切な営為だと思います。そして、それが大切であるからこそ尚一層のこと、どのような男性教師の教えを受けるのか(あるいは受けないのか)の選択および見極めは私たちにとって死活問題だと思います。

 

ある教師の教えを定期的に受けるということは、大なり小なり、その教師の信奉する解釈学や解釈体系の影響下に入ることを意味します。さらに、「解釈者の世界観が聖書観と聖書解釈を規定する」(水草師)ということを鑑みますと、教師Aの教えに定期的に触れることにより、私やあなたは、解釈者である教師Aの持つ世界観に接触し、その影響を受けるようになります。

 

さまざまな情報に溢れる現代ネット社会にあって、私たちはわざわざバスや汽車や飛行機を乗り継がなくても、ただのワンクリックで何千キロ離れた所にいる聖書教師の教えをライブで聴くことができます。

 

昔とは違い、私たちは一時に10人かそれ以上の雑多な牧師たちの様々な教えの影響下に入ることも可能です。その一方、「ただのワンクリック」と思って入ってみたところが、実は後々にまで悪影響を及ぼすことになる「毒入りクリック」だったということもままあります。

 

また昔は、「私どもの教会は、エホバの証人やモルモン教とは一切関係がありません。」というワンフレーズをHPやチラシに書き込むことがイコール「私どもは決して怪しい団体ではありませんよ。健全なプロテスタント教会ですよ。安心してくださいね。」という暗黙のメッセージになっていた部分があったと思いますが、今はもうそれも通用しなくなってきています。

 

というのも、エホバの証人やモルモン教とは一切関係がなく、且つ、(エホバの証人やモルモン教に匹敵するほど)かなり教理に問題のあるプロテスタント諸団体が巷に溢れかえっているからです。同時に、「聖書的」「歴史的」といった形容詞もそれが付いているだけではもはや品質保証にはならなくなりつつあります。

 

それでは私たちはもうお手上げの状態にあるのでしょうか。こういったカオスに長期間さらされると、私たちの中で次第に懐疑主義が芽生えてきます。平たく言えば、「もう誰も何も信じられない」という絶望感がじわじわと募ってくるわけです。

 

その中でも特に人を絶望の淵に追いやるのが、教師たちの口から出る「私はただ聖書に忠実なのです」「ただ聖書を素直に読むと、、」といったフレーズの連発です。というのも、そうやって聖書を「ただ忠実に」「ただ素直に」読んだはずの教師A、教師B、教師C、教師D、教師E、、が結局、それぞれてんでバラバラな釈義や諸結論に至っているのを私たちはライブで見ているわけですから!

 

ですから聖書を「ただ忠実に」「ただ素直に」読み、そこから導き出された教えをしていると言う教師の方々A,B,C,D,Eのお心構えはすばらしいと思いますが、残念なことに、そういった言明はやはり解釈者の主観の域を出ておらず、それゆえ、私たち羊が善い教師を見極める「決め手」とはならないし、なり得ないと思います。

 

私はそういった自分の混沌をさらに迷宮入りさせるような教師ではなく、それを1ミリでもいいから良い方向へ引き上げてくれるような教師を求めていましたし、今も求めています。そして、その過程で私は、どのような種類の教師が自分を「混沌」から「より明瞭」な方向へ導いてくれるのか少しずつ体得していくようになりました。

 

1.立場や前提やリソース元をごまかさず、率直に明かしてくれる教師

 

例えば、K・リドルバーガー師は、The Man of Sin: Uncovering the Truth about the Antichristという著書の序文で、次のように明記しています。「私は無千年王国説に基づく終末論にコミットしている改革派キリスト者としてこの本を書いています。、、、この研究を通し、私は多くの神学者たちーー例えば、メレディス・クライン、G・K・ビール、ゲルハルダス・ヴォス、B・B・ウォーフィールド、リチャード・ボウカム、F・F・ブルースなどーーから多大な影響を受けています。。」

 

また他の場所でもリドルバーガー師は、「この教説の説明に先立ち、まず私の持っている諸前提を申し上げます。ですから、もしも私の見解に何か異論がある方はまずこれらの諸前提をクリティカルに検証なさってください。」と明言しています。

 

私はこういう種類の教師たちに、より信頼を置くことができるように感じます。(*でも、「信頼を置けると感じること」と、その教師の教えを実際に「受け入れること」は二つ別々のことです。)こういった教師たちは、羊たちが情報過多のカオスの中でおろおろ道を彷徨っていることをよく知っているからこそ、自分の教えのリソース元を努めて明らかにするよう配慮してくださっているのだと思います。

 

それゆえに、例えば、5~10年後、私がリドルバーガー師の説く教えの2つか3つ、あるいはその教えの半分くらいを「ベストな解釈ではない」と判断し、受け入れなくなったとします。しかし仮にそういう状況になったとしても、彼が常日頃、自分の教えのリソース元や諸前提を明らかにするよう努力していてくれたおかげで、私は彼から教えてもらった内容を「全否定する」という極端化から守られます。

 

「聖霊によってこの教えが啓示され、、、」「聖書を素直に読めば、、」系のフレーズを連発する教会や個人の影響を脱した人々が往々にして陥ってしまうのは、「聖霊の『啓示』を受けた/聖書を『素直に』読んだ結果がこのざまだったのだから、あの先生(or あの教会)の教え自体まともなものであるわけがない」と、ーーその教師の説いていた比較的健全な教えの部分を含めてーー全部をまるごと否定してしまい、その結果、反動が出過ぎて、今度はその教師とは対極に位置する、これまた不健全な解釈(or不可知論/懐疑主義)を受け入れてしまう危険性があるということです。

 

他方、教師が解釈における自分の諸前提やリソース元を努めて明らかにしてくれることにより、私たちは部分部分を修正・破棄・改訂することがより容易になり、その結果として、次への段階移行がよりスムーズかつ健全なものにされていくように思います。

 

2.解釈の「なぜ」に共に取り組んでくれる教師

 

千年王国諸説に関するヴェルン・ポイスレス師の思い遣りに満ちた解説を聞いて、私は、初めてなぜ「後千年王国説」を信じる聖書信仰のクリスチャンが存在するのか、その理由が以前よりも分かるようになりました。

 

それまでは「後千年王国説はあまりにも楽観的すぎじゃない?」「こういう終末論はまずあり得ないんじゃないかな」と考えていたのですが、この説にもそれをサポートするような聖句が存在し(例えばマルコ4:30-32のからし種の譬え)、また(かつての自分も含めた)大勢の福音主義クリスチャンの偏見に反し、後千年王国説はリベラル主義者だけの専有物ではなく、御霊の力によって福音が力強く伝わっていくことを堅く信じる真摯な信仰者たちの中にもこの説を信じる人々がいるということを知りました。(例:ジョナサン・エドワーズ、R・C・スプロール)。

 

単なる○×式だけでない、解釈の「なぜ」にていねいに取り組んでくださる教師たちの恩恵に与ることで、私たちはまず、他者の諸見解を軽率に裁く誘惑から守られると思います。

 

また、なぜ私やあなたが○○という解釈を採用するに至ったのか(あるいは破棄することに至ったのか)という点を追っていくことで、その周辺部分に見え隠れしている真理の諸要素への思いがけない気づきが与えられ、、そしてそれがさらなる探求のきっかけになっていくように思います。

 

解釈の営みにおけるこういった一連のプロセスに関し、アンソニー・ティーセルトン師が次のような感慨深いことをおっしゃっていました。

 

 「私たちの理解が進み、成長していく過程で、私たちは、自分の予備的理解のある諸側面が修正されなればならないことに気づいたり、そうかと思えば、他の諸側面はむしろその価値が立証されているように見えたりします。ある諸側面は、『適切な寸法のもの』として、より大きな鳥瞰図に適合しているように見え、また別のものは誤った進路にあることが分かってきます。それが理由で、《理解》というのは、ある突発的な "出来事"であることは稀で、むしろそれは一つの "プロセス"であることが多いのです。

 

 ある神学者や歴史家たちがテキストを解釈する際ーー彼らの作品を知っている外部者の目から見ると、彼らがなぜそのような解釈をするのか、ほとんど予測可能である場合があります、、でもそれによって懐疑論を嵩じさせる必要はありません。そうではなく、それは『私たちがより広範なる全体像(picture)を理解するそのあり方が、それを構成している各要素を理解する仕方に影響を与えている』ということを示唆していると言っていいかと思います。  

 

 冷笑家や懐疑論者は、『それじゃあ結局のところ、すべてはあんたの諸前提にかかっているんだ』という幻想の下にその場を去りたくなる誘惑に駆られるかもしれません。しかしこれは往々にして、さらなる話し合いを排除する安直な方法に過ぎません。

 

 解釈の営為に、よりよく親しんでいくことによって分かってくるのは、『ある見解』と『暫定的予断』との間の〈交渉〉は、交渉の余地なき固定した諸前提間の戦いといったものでは全くないということです。予備的理解および、より豊満なる理解に向けての私たちの旅路には、再交渉、再形成、修正のための余地がいくらもあり、それらはそれぞれの部分や全体に引き続き私たちが取り組んでいく過程でなされていくものです。」

Anthony C. Thiselton, Hermeneutics: An Introduction

 

グラント・オスボーン師は、その旅路のことを「解釈学的らせん(hermeneutical spiral)」といみじくも表現しています。それは平面的循環というよりは、むしろ、初期の先行理解(pre-understanding)からより豊満なる理解へと動いていく、上向きかつ建設的な移行プロセスです。その後、私たちはこの予備的理解の中で、果たしてそこに修正や変化の余地がないのかを確かめるべく立ち戻り、、また進んでいきます。

 

聖書解釈の営みが、上向きで建設的な螺旋(らせん)上のプロセスであり、旅路であるというメッセージはそれ自体私にとって希望です。

 

そしてこういった希望のメッセージを聞く時、私は薄暗い混沌の世界の中に差し出されている、確かなる愛の御手をみます。そしてこの御手にすがりながらこれからも一歩一歩、歩んでいきたいという願いが起されます。このような教師たちを私たちの元に遣わしてくださっている主に感謝申し上げます。