巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

清い「オジサン」たちと共生する楽しい世界

「このブログを開くに至ったいきさつ」(証し)の中で告白しましたように、私は聖書的女性像を追い求め、探求する過程で、「聖書の教えに関する内容は(女性である自分が書くのではなく)男性教師・神学者の方々の論文を翻訳する」という方向転換をしました。1年4カ月ほど前のことです。

 

尚、これはすべてのクリスチャン女性に適用されるべき「掟」の類ではなく、ただ私という一個人が試行錯誤のプロセスの中で選択することにした一つの改革案でした。

 

私たちの神様は知恵に富んでおられるだけでなく、ユーモアも兼ね備えておられる方だと思います。といいますのも、この改革を通し、主は私を、それまで予想もしなかった未知の世界に運び入れてくださったからです。

 

そうです、気がつくと私は、保守的なクリスチャン男性教師たちがごそごそと蠢(うごめ)いている世界に降りたっていました。見わたしてみると、平均年齢は60-70歳位といったところでしょうか。さて今、親しみと愛を込めて、彼らのことを「オジサン」とお呼びすることにしましょう。

 

現実世界を見ますと一般に、クリスチャンの「オジサン」といわれる人々は、円状でも線上でもなく、独立した一個の「点」として存在しているように私の目には映っています。

 

彼らは物理的に一か所に集まっていることもありますが、群れてはいません。私たち女性が、スタバで互いの近況や心を「シェアする」という意味での、「シェアリング」はオジサンたちの生息する世界には存在しないのかもしれません。

 

しかも彼らはプログレッシブでup-to-dateな「オープンネス」を持っているのではなく、聖書的理由により、現在でも堅実な保守性を内に秘めているため、一見すると「とっつきにくい」「何を考えているのかさっぱり分からない」と敬遠されがちです。

 

それではオジサンたちは何も「シェア」していないのでしょうか?

 

翻訳者と執筆者というのは、不思議な関係を持っています。翻訳者である私は、執筆者によって書かれたテキストを通し、執筆者の知的世界の「中」に入り、いわば彼らの「内側」から言語交換作業を行なっているわけです。ですからその一連の過程自体が一つの対話行為になっていると言っていいかもしれません。

 

論文と言えば、堅いイメージがありますが、私が発見したのは、その一見無機質のようにみえる論文の中に、実は、オジサンたちバージョンの「スタバでの『シェアリング』」があり、秘かなる感情や情熱のほとばしり、そして心の叫びが内蔵されているということでした。

 

今は亡きR・C・スプロール師。彼の講義は分かりやすいですが、彼の英文も口語に劣らず分かりやすく、何を言いたいのか、どこが肝要な点なのかがとてもよく伝わってきます。

 

ヴェルン・ポイスレス師(72)は、文章からおっとりした彼の優しい性格が伝わってきます。数学者としての論理性と、のびのびした意味論の展開。ポストモダン世界で保守信仰を堅持しつつ私たち信仰者がいかに考え、生きていけばいいのか、彼はその重要なメッセージを情熱を持って語っていると思います。

 

D・A・カーソン師(72)はシャープで、しかもウィットに富んだ人だなあということが文章から伝わってきます。特に彼の形容詞の使い方は "傑作"で、普通の人がまず使わないような単語の組み合わせで、個性的に物事を描写しており、それは彼一流のユーモアなのだろうと思います。(もしかしたら彼のもう一つの母語がフランス語であることもそれらに影響しているのかもしれません。)カーソン師は時々、論敵に対して怒っていますが、その際にも、抑制した表現で「静に」怒っておられます(笑)。

 

オジサンたちも悲しかったり、怒ったり、嬉しかったり、はしゃいだり、感動したりすることがあるんだなあと翻訳しながら気づきが与えられています。日頃黙っているからといって彼が他者と自分を遮断しているわけではなく、群れていないからといって彼が人嫌いなわけではなく、「シェア」しようとしないからといって彼が心を閉ざしているわけではなく、彼には彼の「伝達・表現方法」があり、そこに繊細な心の目を向けると、今まで聞こえなかった彼の「声」が聞こえてくるのではないかと思います。

 

キリストのみからだを構成するあらゆる器官が尊く、それが尊いがゆえに、私たちは御霊の愛の内に、互いの「声」に耳を傾け合い、共に成長していくことができるのではないかと思います。