巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

彼/彼女は「ネーミング」した。ーー分派的新興運動がみずからを「聖書的回復運動」とみなしていく道すじについて

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目次

 

はじめに

 

昔、エホバの証人の方が、「使徒パウロや使徒ペテロはエホバの証人だった」と言っているのを聞いてびっくり仰天したことがありました。パウロが生きたのは1世紀で、宗教としてのエホバの証人が、チャールズ・テイズ・ラッセル氏によって創設されたのは1870年代です。ですから当然、1世紀には「エホバの証人」という用語はなく、そのような存在もなかったはずではないでしょうか?

 

また最近では、「イエスは、最初のフェミニストだった」と主張するプログレッシブな対等主義者たちもいます。

 

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さらに、「ギリシャ正教会だけが唯一の正しいキリスト教信仰であり、それ以外の諸宗派はすべて異端だ」という見解を持つ隣人に対し私は次のような問いかけをします。「それではお尋ねしますが、使徒パウロやペテロやテモテは何だったのでしょう?彼らはギリシャ正教徒だったのでしょうか。カトリック教徒だったのでしょうか。それともプロテスタントだったのでしょうか?」

 

また伝統諸教会の視点からみた場合、16世紀に興ったプロテスタンティズムもある意味、「分派的新興運動」にカテゴライズされる可能性はあり、その際、「宗教改革によって使徒時代のオリジナルな諸教理が『回復された』ととらえるプロテスタント版ストーリーラインには欺瞞がある」といった厳しい外部批評もあちこちで聞かれます。

 

ですから、「分派的新興運動がみずからを『聖書的回復運動』としていく道すじについて」という本稿の副タイトルには、自分の〈外側〉に位置する新興諸運動の観察・批評と同時に、(伝統諸教会の厳しい目におそらく映っているであろう「分派的新興運動」としての)プロテスタンティズムを信奉している自分および自陣営に対する〈点検、自己吟味〉という二重の意味が含まれています。

 

大砲の撃ち込みと「ネーミング」

 

新興運動が「聖書的回復運動」であるためには、それまでのキリスト教会の歩みが何らかの形で長期間に渡り、真理から逸脱してきたという事を周りの人に知らしめ、説得しなければなりません。つまり、「これまでキリスト教会は○○の点でずっと間違ってきた」という大砲をボ~ンと撃ち込まなければならないのです。

 

そしてそうする上で大切なのは、自分たちが問題だと認識しているキリスト教会の逸脱や間違いに「ネーミング」することです。フェミニストたちは彼らが見る問題の元凶に「家父長制」という名をつけました*1。マーク・ビルツ師を始めとする「ヘブル的ルーツ運動」の人々は、彼らが見る問題の元凶に「置換神学」という名をつけました*2

 

こういったネーミング行為に当たり肝要なのは、それが5年や10年ではなく、500年、1000年、あるいは2000年余のキリスト教史をがっちりカバーできるほど耐久性と時間的拡がりをもつ〈なにか〉でなければならないということです。

 

こうしてネーミングされた領域下にあるキリスト教会史は、どす黒く澱んだdark ageであるという価値判断が下され、そこから新しい分派的歴史観が生じてくるようになります

 

また「聖書的回復運動」と名の付くあらゆるストーリーラインにはーーそれが真正なものであれまがい物であれーー、主流キリスト教会の「背教/逸脱」という要素に加え、自分たちの新興運動は「新約教会(あるいは使徒教会・初代教会)」と教理の面で一致しているという個的・集合的意識がなければなりません。あるいは「一致している」とまではいかなくても、少なくとも、「使徒性がある*3」と言えるなにがしかの根拠づけがなくてはなりません。

 

もしくは歴史的正当性の立証はそもそも無理であると開き直って、キリスト教会はその揺籃期から「背教」し、(21世紀に彼ら回復者たちが興されるまで)2000年間、ひたすら虚偽の中に眠っていたというストーリーラインを構築する新興運動もあるでしょう。

 

「ネーミング」と硬直化

 

往々にしてそういった分派的新興運動内に起るのは、(問題の元凶を表すものとして)彼らのネーミングした「用語」が気づかぬ間に、歴史の流れの中で起こるさまざまな事象を一括できる「万能マスターキー」として高揚・硬直化されていき、そこからいびつな形の還元主義が生み出されていくことです。

 

確かに、女性に対する抑圧や差別は、非キリスト教圏だけでなく、(フェミニストの多くが指摘しているように)ある意味、「キリスト教圏」と言われる場所でも多かれ少なかれ存在していた(いる)ことは事実だと思います。それは人間の罪性や権力欲から生み出された教会の恥辱史だといってもいいかもしれません。

 

また、反セム主義やユダヤ人殺害・迫害の歴史は、プロテスタントを含めキリスト教会が犯してきたおぞましい罪であり極悪です。私たちはこの残虐な事実から目を逸らすことはできませんし、頭を垂れ、ただひたすら主の前に憐みと赦しを乞うのみです。

 

しかしながら、そういったキリスト教会の恥辱や罪悪の事実を認めることと、(それらの諸悪の原因だと私やあなたが判断・特定した内容を基に)「ネーミング」する行為は、オーバーラップする部分はあっても、二つ別々のことだと思います。

 

フェミニストの定義するところのいわゆる「家父長制」によって、ある部分で、実際本当に女性差別や抑圧が助長されてきたのかもしれませんし、残念ながらそういう男性たちが存在していた(いる)のかもしれません。(きっとそうでしょう。)あるいは「ヘブル的ルーツ運動」の推進者たちの定義するところのいわゆる「置換神学」によって、ユダヤ人に対する迫害行為に神学的お墨付きが与えられたと考える人々がいたのかもしれません。そして実際、そういう反セム主義のクリスチャンたちの横暴によってユダヤ人の方々はひどい仕打ちを受け苦しんでこられたのかもしれません。(きっとそうでしょう。)

 

しかしながらネーミングされたその「用語」が、次第に「ひとり歩き」を始め、人々が、周辺諸事情も含めたあらゆる諸問題を一括してその「用語」の中に詰め込んでいくことを無批判に許容していく時、その時、おそろしい形での、集団的硬直化現象が起こってくると思います。

 

そうなりますと、本来なら、あくまでも局所的問題を指し示すものであったはずの「用語」が、いつしか、自らの運動内の特定教理に賛同しない人々の世界観ないしは信仰のあり方全体を断罪する「絶対的ものさし」と化し、無限にその適用領域を拡げていくようになるでしょう。ものみの塔の雑誌の中での「Christendom(キリスト教国)」という用語の使われ方の中にも、私は、そういった「ものさし」を見い出します。

 

ある集団がカルト化していく過程で、〈内〉と〈外〉をラディカルに分離する「ネーミング」とその意味論的拡大の試みは、必要不可欠なものです。

 

また、教師たちは、「ネーミング」された体系や世界観の諸悪を、これでもかこれでもかという程、羊たちに説き、それがいかに悪であり虚偽であるかということを羊たちの脳裏に叩き込まねばなりません。

 

これはシーソーゲームと同じで、「ネーミング」された既存キリスト教会の特定の悪や問題を強調し、相手を下に引き降ろせば引き降ろすほど、自らの運動の価値・重要性がいよよ増しに高まり、こうして羊たちは「ああ、そうか。だから私たちはこの回復をぜひとも必要としているのだ」とグループ内での自分のアイデンティティーおよび「聖書的」使命感を見い出していくようになります。

 

彼/彼女は「ネーミング」した。

 

キリスト教会の歴史性・普遍性を軽んじ、彼/彼女は、21世紀に興された真の回復者として大胆不敵に「ネーミング」しました。しかし皮肉なことに、本来、主体であったはずの彼/彼女が、いつの間にか彼らのネーミングした「用語」に縛られ、硬直した狭いスペース("sect")の中に自らを閉じ込めてしまっています。

 

そこはすべてが内輪の世界です。内輪だけで通じる体系、内輪だけで通じる用語、内輪だけで通じる理屈、内輪だけで通じる〈内〉と〈外〉のラディカルな二項対立。

 

「諸悪の元凶」体系を持つ〈外〉のクリスチャンたちとの溝が深まり、孤立化していけばいくほど、彼/彼女は、ますます内輪の世界にのめり込んでいき、こうして集団のカルト性は一層深刻なものになっていきます。

 

人間のネーミング行為によって作り出された「用語」の専制君主化と暴政を防ぐためには、やはり神の前における認識論的へりくだりが必要なのではないかと思わされます。その点に関したウェストミンスター神学大のポイスレス教授の言及を引用し、本記事を終りにしたいと思います。

 

「いかなるカテゴリー、主題、概念、そしてカテゴリー体系を用いたとしても、私たちには無限に深い世界分析を行なうことはできません。またどんなカテゴリーと言えども、その他のカテゴリーが為し得るものより先天的・本質的に透徹した分析は提供していません。

 

さらに、どんなカテゴリーを用いたにしても、私たち人間は、(剰余や残留物、or 可能性としてあり得る中間的諸事例に関する不同意などの余地を全く残さず)世界もしくは世界のある側面を小ぎれい、さっぱりに二分することはできません。いかなるカテゴリーも(それが哲学、神学、自然科学、その他どんな学から来るとしても)、事象に関するある特定集団の本質を完璧に捉えることはできません。

 

それゆえ、人間としての私たちの価値および、私たちの人生・世界に関する価値に関し、聖書にあるイエス・キリストに関する啓示以上の究極的啓示は存在しません。しかし私たちの内のある人々は、なにがしかのカテゴリーを、『これこそ、より深遠にしてより究極的であり、それゆえに聖書啓示の諸制限を決定づけている』と考えているかもしれません。しかし、本稿で扱っているこの原則はそういった種類のカテゴリー手段によって聖書を『超え』、聖書の『上を行こう』とするいかなる試みをも禁じているのです。」(引用元)

 

ー終わりー

*1:60年代後半、フェミニスト著作家であるケイト・ミレット女史が、女性たちの抱える「未だ命名のされていない問題」を描写すべく、はじめて「Patriarchy(家父長制)」という語を用い始めました。参照:Mary A. Kassian, The Feminist Gospel: The Movement to Unite Feminism with the Church. 

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左がケイト・ミレット(1934~)。アメリカのフェミニスト、芸術家、バイセクシュアル。オックスフォード大卒。第二次フェミニズム運動に絶大な影響を与えた人物。代表作『性の政治学』

*2: 

*3: