巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神の永遠の御住まい(ゲルハルダス・ヴォス、R・B・カイパー)

神の栄光が都を照らし(黙21:23)

 

目次

 

Geerhardus Vos, Biblical Theology: Old and New Testaments,Part Two The Prophetic Epoch of Revelation ,"pp.148, 154, 155を拙訳)

 

幕屋(ゲルハルダス・ヴォス)

 

幕屋

 

幕屋は、旧約聖書の宗教における主要な諸制度の中に「象徴的なもの」と「予型的なもの」が共存していることを示す明確な例を提供しています。そして、幕屋は、「ご自身の民と共にいます神のご臨在」というきわめて宗教的な思想を具象化しています。宗教についての旧約の状態に関し、それは象徴的に表現しており、キリスト者の段階における救済の究極的具象化に関しては、それを予型論的に表現しています。

 

幕屋は、それ自体としては、集中した神政(theocracy)です。そしてその主眼がヤーウェの内在(indwelling)を実現させることであることは、多くの聖句によって支持されています(出25:8;29:44、45)。

 

幕屋の、その最も一般的名称は、ミシュカーン「(神の)宿る場所、住居, 'dwelling-place'」に由来しています。英語翻訳では、七十人訳およびラテン語ウルガタ訳に依拠しつつ、'tabernacle'と言及しています。しかし'tabernacle'は天幕('tent')を意味しています。ーーすべての天幕はミシュカーン(מִשְׁכַּן、mishkan)ですが、すべてのミシュカーンが天幕であるわけではありません。というのも、天幕を表す語として、ヘブライ語にはオーヘルという別の語があるからです。

 

スペンサーが指摘しているように、住まいの中における神の住居というのは、「神的存在は慰安やシェルターを必要としている」というような未開的思想を基盤として捉えられてはなりません。〔中略〕

 

キリストーー対型的幕屋(anti-typical tabernacle)

 

幕屋の予型的重要性は、その象徴的重要性に密接に依拠しています。私たちは次のように問わなければなりません。「幕屋が教示し伝達しようとしている諸原則やリアリティーは、贖罪の歴史の中でいつ再現しているだろうか?」と。

 

まず第一に私たちはそれらを栄化されたキリストの内に見い出します。これに関しヨハネは次のように言っています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)。

 

またヨハネ2:19-22で、イエスご自身が、旧約の神殿を三日の内に建て直すーーつまり復活を通してーーと予告しておられます。これは、旧約聖書の聖所と、ご自身の栄化されたペルソナとの間の連続性を認めるものです。そうです、キリストの内にあって、それまで幕屋や神殿が象徴していたあらゆるものが、今や永続的に不朽のものとして存在し続けるのです。建物としての石の構造は消え去るでしょう。しかし本質はそれ自体が永遠のものであることを立証しています。

 

コロサイ2:9で、パウロは、「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています」と言っています。そしてこの箇所は、ナタニエルに対するイエスの御言葉(ヨハネ1:51)と対照される必要があるでしょう。ヨハネ1:51でイエスは、ーーかつてヤコブが神の家、天の門と呼んでいたものーーの成就を、ご自身の内に見い出しています。こういった事例において、キリストにある神の御住まいは、かつてモーセの幕屋が予備的に果たした役割を今、果たしています。対型的幕屋としてのキリストは、その最高次元において、天啓的そして礼典的です。

 

幕屋はまた教会の予型でもある

 

キリストにおいて真であることはまた、教会においても真であります。そしてこの場合においても、幕屋は予型です。それ以外にはあり得ません。というのも、教会は復活されたキリストのみからだだからです。それがゆえに、教会は「神の家」と呼ばれています(エペソ2:21、22;1テモテ3:15;ヘブル3:6;10:21;1ペテロ2:5)。またクリスチャンは神の神殿と呼ばれています(1コリ6:19)。

 

ここで留意しなければならないのは、新約聖書の中において「神の家」というのは神と教会の間の交わりを表すものであるだけでなく、常に旧約聖書のヤーウェの御住まいに特別言及するものでもあるという事です。幕屋の思想における最高次の実現は、贖罪史の終末論的段階に帰されます。それはヨハネの黙示録の中に描写されています(黙21:3)。

 

黙21:3a

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」

 

ここでの表象の特異性は、イザヤ4:5,6に依拠しつつ、幕屋および神殿の領域が、新しいエルサレム全体と同等のひろがりを持つほどに拡大しているということです。象徴的で予型的な幕屋もしくは神殿の必要性は、神政に関する現段階の不完全性を前提しています。しかしやがて神政(神の統治)が完全に神的理想と一致するその時、もはや象徴や予型の必要性はなくなります。

 

それゆえ、「私はこの都の中に神殿を見なかった」(黙21:22)という言明がなされています。しかしそれは「教会無しの都」を意味しているわけではありません。聖書的術語を用いるなら、私たちはむしろ「やがてその場所がすべて教会となって満ち満ちるであろう」と言うべきです。

 

 

神の家ーー永遠の住まい(R・B・カイパー)

 

R・B・カイパー著、山崎順治訳『聖書の教会観ーキリストの栄光のからだー』、第50章 神の家, p.285-287.

 

御霊はいつまでも教会と共に住むために、教会に与えられたのです。その時以来、御霊は教会から離れることはありませんでしたし、将来もいつまでも、あり得ないでしょう。

 

この真理は、キリスト教会の栄光に直接的意義をもっています。再三再四、歴史において、教会は神に見捨てられたのではないかと思われることがありました。たびたび、「栄光はイスラエルを離れた」(サムエル上4:21)というつぶやきが、本当らしく見えました。外見的には、〈イカボデ〉と刻まれた表札が、キリスト教会の扉の上にかかげられて当然と思われました。

 

宗教改革の時代は典型的でした。今日も昔と少しも変わらないように思われます。不信仰が教会を飲み尽くしています。教会の指導者や教職たちのまことに多くが、神の言を否定しています。彼らは盲人の手を引く盲人のようになっています。教会は、真理の御霊を悲しませました。そして彼は、教会を偽りの霊にゆだねておっれるかのように見えます。(本当はそんなことはしてはおられません。)教会員の圧倒的大多数は、公然と真理を否定するか、関心を失うかしています。

 

しかし、御霊が教会のうちに住んでおられることは、常にそこに、「バアルにひざをかがめず、それに口づけしない七千人」が残されていることを保証しています(列王記上19:18)。この忠実な七千人の者が、神の真の教会を構成しており、今も、16世紀に歌われたごとくに歌っています。

 

讃美歌267番 
「神はわがやぐら」

1
神はわがやぐら、わが強き盾、
苦しめるときの、近きたすけぞ。
おのが力  おのが知恵(ちえ)をたのみとせる
陰府(よみ)の長(おさ)もなどおそるべき。

2
いかに強くとも いかでか頼まん、
やがては朽つべき 人のちからを。
われと共に  戦いたもう  イエス君こそ
万軍の主なる  あまつ大神(おおかみ)。

3
あくま世にみちて よしおどすとも、
かみの真理まこと)とこそ わがうちにあれ。
陰府(よみ)の長(おさ)よ ほえ猛りて 迫り来とも、
主のさばきは 汝(な)がうえにあり。

4
暗きのちからの よし防ぐとも、
主のみことばこそ 進みにすすめ。
わが命も わが宝も とらばとりね、
神のくには なお我にあり。

 

神は、教会に、代々にわたって住まわれるだけではありません。とこしえまでも住まわれるのです。ヨハネは、新しい天と新しい地とを見ました。先の天と先の地とは消え去り、そこにはもはや海はありませんでした。彼はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下ってくるのを見ました。そして御座から大きな声が呼ぶのを聞きました。「見よ。神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいます。」(黙21:1-3)

 

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