巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「註」から見えてくるもの

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出典 

 

 「註が一個も付いていない論文がないわけではない。ただし、その場合、その論文に含まれている事実関係のデータはすべて自分で調査したものであり、議論の前提となる命題も、論証過程も結論もすべて自前のものでなければならない。

 しかし、多くの場合、全部自力で解決したと思っていても、間接的には様々な影響を受けているものであり、そもそも何かに自分が問題を感じるということ自体、そうしたものの見方、考え方が歴史的に形成されてきたものである場合がほとんどであろう。

 そうした様々な間接的、無意識的影響を漠然と放置しておくのではなく、むしろそうした影響の源泉を自覚的に探索すること自体が、実は註を付けるということの効用の一つなのかもしれない。

どういう場合に註を付けるか(引用元

 

みなさんはどうか分かりませんが、私は論文を読む際、題名と著者名を確認し目次にざっと目を通した後、どこよりもまず先に巻末の註を読みます。註を読むと、論者の基本的な立場や学術的方向性などが(くっきりはっきりではありませんが)それなりの鮮明さを持って浮かび上がってくるように思います。

 

また、上記の引用句の中にもあるように、註の存在は、私に「全部自力で解決したと思っていても、間接的には様々な影響を受けているものであり、そもそも何かに自分が問題を感じるということ自体、そうしたものの見方、考え方が歴史的に形成されてきたものである」ことに気づかせてくれる、小さくも貴重なるスペースです。

 

例えば、一つの論文に60ほどの註が付いており、その中に古今東西、総計100編の関連論文名や引用句が記されていたとします。そうすると、論者A氏のこの論文形成の背後には、少なくとも100人余り別の論者たちがいて、彼ら一人一人がA氏の見解構築に何らかの形でかかわっているということになると思います。

 

註の中には、今は亡き論者たちの懐かしい名前や論文もたくさん出てきます。前世代を生きた先人たちの地道な努力が忘却されることなく、後代の信仰者(論者)たちにバトンタッチされ、それらが受け継がれているのを見る時、私はその短い註の中に聖霊の確実なる御働きをみ、深い感動を覚えます。

 

脚註は英語ではfootnoteといいます。ページの末尾(foot)に書かれている注釈(note)というのが元々の語源のようです。そこから転じて、「付随的なもの、副次的なもの、ささいな事柄」という意味も生まれてきたそうです。Oxford Advanced Learner's Dictionary; ジーニアス英和大辞典)

 

本文には本文の、註には註の持ち分があり、役目があると思います。そしてたしかに、一つの論文の中でもっとも重要なのは本体(body)に当たるテキスト本文であり、その論点なのだろうと思います。そうなのですが、私は、文の後ろや脇の方にちょこっと添えられているこの「註」の存在が愛しくてなりません。

 

それは正面や表街道からは見えにくい場所で「補足的な事柄」「(比較的)ささいな事柄」を述べているのかもしれません。でも小さめのフォントで模られた「註」は、彼なりの懸命さで私たちになにかを伝えているような気がしてならないのです。ええ、私は、人の人生のことを考えています。私たちにはそれぞれ表向きの立場や役職名や使命といったものがあります。でもメインの文章からは一見みえにくい所に、人ひとり特別な「註」があり、ストーリーがあるのではないかと思うのです。そして私は自分にかかわるすべての人々の人生を織りなしているそういったちいさな「註」の存在に敏感でありたい、そこを愛しみ大切に考えたいと願っています。