巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

キリストの再臨に先立ち、イスラエルはリバイバルもしくは回復を経験するのでしょうか?(by D・A・カーソン、トリニティー神学校)


D.A. Carson, Will Israel experience a revival or restoration prior to Jesus' return?(拙訳)

 

「キリスト再臨の前に何らかの形でイスラエルはリバイバルもしくは神への回復を経験するのでしょうか?」という問いに関してですが、これは主としてローマ人への手紙11章25節から27節の箇所の釈義如何にかかっていると言っても過言ではないでしょう。

 

改革派的伝統にある人々の多数は次のように言います。「『イスラエルはみな救われる』というのは全ての信者の事を指しており、イスラエルというのは予型論的に用いられています。それに第一、ローマ2章で、使徒パウロ自身、『真の割礼とは心の割礼であり、そして、ただ単にアブラハムの血統を持って生まれてきた人というよりはむしろ、神を本当に知っている人こそが真のユダヤ人である』という事を言っています。」

 

それゆえに、もしも私たちがこの筋道でずっとローマ11章まで進んでいくと、たしかに、ローマ11章は私たちに「キリスト再臨前に、神の民ーー歴史的・契約的ーーユダヤ人の間になにか大きな動きがある」という風な解釈を奨励してはいない、という結論に行きつくだろうということは十分に理解できます。

 

しかしながらこの点に関し、私個人としては、どちらかというと、『ローマ書註解』の中のジョン・マーレーの見解の方を支持したい気持ちがあります。

 

Related image

ジョン・マーレー著『ローマの信徒への手紙 上、下』 (聖恵・聖書注解シリーズ)

 

John Murray, Epistle to the Romans (New Testament Commentary), 1960

 

なぜかと言いますと、同じ11章の12節と15節で、パウロは、二回、--25節から27節を私たちに提起すべくーー「もしも彼らの違反が」「彼らの失敗が」「彼らの捨てられることが」異邦人の富となるのならとあり、実際、福音はシナゴーグにいた1世紀の多くのユダヤ人によって拒絶され、それゆえにパウロおよび他の使徒たちはより広範囲な異邦人世界へと移動して行き、それが意味するのはより多くの異邦人たちが回心したということです。

 

もしもそうなら、パウロはここでレトリックな問いかけをしていることになります。「イスラエル人たちが実際に受け入れられることは、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう?」と。

 

ですから、そこには何か振り子が一方の側もしくは別の側に振り切れたような感があり、この文脈におけるイスラエルを、ある種の予型論的な意味における「神の民のすべて」を言及するものと捉えるのはかなり困難であるように思われます。なぜなら、そこには異邦人とイスラエルの間のコントラストがあるからです。

 

ですから、その枠組み内で考えた時、ローマ11章25節から27節(「イスラエルはみな救われる」)は、終りに向けたある種大規模な転換(swing)を示しているように思われ、その時、イスラエルの間だけでなく、異邦人の間にあっても、大きな祝福や伝道における前進が起こるのではないかと思います。

 

そしてこの時期がまた同時に、苦難、抑圧、そして迫害の時期と結び付いていてはいけない理由は無いように思われます。換言しますと、、そういった一連の出来事が全てどのようにして起こるのか、それは私にははっきり分かりません。しかし、ーーこれについてドグマチックになりたいとは思いませんがーー少なくとも、民族としてのイスラエルに将来的に大きな祝福の時が訪れ、その時、彼らの中の多くがキリストの福音の中に入れられるのではないかと私は考えております。